中国史上における唐王朝(618–907年)は、その前期において空前の繁栄を極め、「開元の治」や「貞観の治」といった黄金時代を築いた。しかし、天宝14載(755年)に勃発した安史の乱(安禄山・史思明の反乱)は、唐帝国の政治・経済・軍事・社会構造に甚大な打撃を与え、その後の歴史的展開に決定的な影響を及ぼしたと広く認識されている。
一、安史の乱以前の唐朝:頂点に達した帝国体制
1.1 開元・天宝期の繁栄
玄宗皇帝(在位:712–756年)の治世初期、特に開元年間(713–741年)は、姚崇・宋璟ら有能な宰相の補佐のもと、行政改革が進められ、戸籍制度(均田制・租庸調制)が整備され、国庫は充実し、人口も増加した。『旧唐書』巻三十七〈玄宗本紀〉には次のように記されている:
「開元之時、海内昇平、路不拾遺、夜不閉戸。」
(『旧唐書』巻三十七)
この記述は、当時の社会秩序の安定と治安の良さを象徴的に示している。
1.2 藩鎮体制の拡大と権力の偏重
しかし、玄宗の後半、特に李林甫・楊国忠らの専横と、辺境防衛のための節度使制度の強化により、中央集権体制は徐々に歪み始めた。特に、安禄山は范陽・平盧・河東の三鎮節度使を兼ね、兵力・財源・人事権を一手に掌握していた。『資治通鑑』巻二百十六(天宝十載条)にはこうある:
「禄山兼領三道節度、精兵十八万、天下之兵、三分有其二。」
(司馬光『資治通鑑』巻二百十六)
このような軍事力の地方集中は、後に反乱の温床となる要因であった。
二、安史の乱の爆発とその即時的影響
2.1 反乱の勃発と長安陥落
天宝十四載十一月、安禄山は「清君側」を旗印に挙兵し、僅か数カ月で洛陽を占領、翌年には長安を陥落させた。玄宗は蜀へ逃亡し、太子の粛宗が即位する混乱が生じた。『新唐書』巻二百二十五上〈逆臣伝・安禄山伝〉には次のように記される:
「賊鋒甚銭、所過州縣、望風瓦解。」
(『新唐書』巻二百二十五上)
この記述は、唐軍の防衛体制の脆弱さと、地方官僚の無力さを如実に示している。
2.2 人的・物的損失と経済基盤の崩壊
乱の継続期間は約8年に及び、黄河流域を中心に広範囲にわたり都市・村落が焦土と化した。『通典』巻七〈食貨典〉によれば、戸数は乱前約900万戸から乱後約200万戸にまで激減したとされる:
「天宝末、戸八百九十一万四千七百九。至乾元三年、戸百九十三万一千一百四十五。」
(杜佑『通典』巻七)
この数字は、戦乱による大量の死亡・流散・戸籍逸脱を反映しており、国家の税収基盤が根本から揺らいだことを意味する。
三、安史の乱後の唐朝:再建と構造的変容
3.1 藩鎮割拠と中央権力の相対的弱体化
乱後、唐は表面上は統一を回復したが、反乱鎮圧の過程で地方軍閥(藩鎮)に大幅な自治権を与えた結果、河北三鎮(魏博・成徳・盧龍)などは事実上の独立状態にあった。『新唐書』巻五十〈兵志〉には次のようにある:
「自是之後、方鎮相望於内地、大者連州十餘、小者猶兼三四。」
(『新唐書』巻五十)
このように、中央政権の支配力は著しく後退し、藩鎮の跋扈が恒常化した。
3.2 経済制度の転換:租庸調制から両税法へ
戸籍制度の崩壊に伴い、租庸調制は機能不全に陥り、代わって780年に楊炎によって両税法が導入された。これは土地と資産に応じて課税する画期的な制度であり、国家財政の再建に寄与したものの、同時に地主階級の台頭を促進し、社会構造の変容を加速させた。
四、安史の乱を「由盛転衰の転換点」と見なす妥当性
4.1 政治的・軍事的視点からの評価
安史の乱以前の唐は、皇帝を中心とする高度な中央集権体制を維持していたが、乱後は地方軍閥の台頭により、その体制は不可逆的に変質した。この意味で、安史の乱は「制度的転換点」と言える。
4.2 経済的・社会的視点からの評価
人口の急減、農業生産の停滞、流通網の寸断など、経済的打撃は深刻であり、それ以降、唐は経済面でも「盛唐」の水準に戻ることはなかった。ただし、江南地域の開発が進み、経済重心が南へ移動するという新たな展開もあった。
4.3 文化的・精神的視点からの評価
李白・杜甫らの詩人たちは、安史の乱を契機に作品に悲愴と憂国の念を込めるようになり、文化の性格も「豪放」から「沈鬱」へと転じた。杜甫の『春望』「国破れて山河あり」は、まさにこの時代精神を象徴する一句である。
五、異論と補足:単一の転換点としての限界
ただし、安史の乱を「唯一の」転換点と見なすことには注意が必要である。例えば、乱後の唐は依然として150年近く存続し、憲宗の元和中興(806–820年)のように一時的な中央権力の回復も見られた。また、黄巣の乱(875–884年)や朱温による簒奪(907年)といった後期の動乱も、唐滅亡に向けた重要な段階である。
司馬光は『資治通鑑』巻二百二十三(広徳元年条)において、乱後の情勢をこう総括している:
「由是禍亂繼起、兵革不息、民墜塗炭、無所控訴。」
(『資治通鑑』巻二百二十三)
この記述は、安史の乱が「長期的衰退の始まり」を告げたことを示唆しているが、それは直線的な没落ではなく、曲折を伴う複合的プロセスであった。
結論
以上より、安史の乱は、唐朝の政治体制・経済基盤・軍事構造・社会秩序に抜本的な変化をもたらし、それ以前の「盛唐」とそれ以後の「中晩唐」を画する歴史的事件であったと結論づけられる。『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』『通典』などの一次史料が一貫して描くのは、乱を境に唐帝国が「統一的・中央集権的・安定的」な国家から、「分裂的・地方分権的・不安定的」な国家へと質的に転換したという事実である。