中国四千年の帝政史において、皇帝(天子)の位は原則として男性に限られてきた。しかしながら、唐時代に即位した武則天(624年-705年)は、正式に「皇帝」として即位し、「周」(後世「武周」と称される)という国号を掲げて統治を行った。この事実は広く知られているが、「武則天は中国歴史上唯一の女皇帝である」という通説が、果たして厳密な史料的根拠に基づくものであるかについては、慎重な検討を要する。
一、武則天の即位と「皇帝」としての法的・儀礼的正統性
1.1 国号変更と尊号の受領:『旧唐書』の記述
武則天は、唐高宗崩御後、皇太后として実権を握り続け、ついには自ら帝位に就いた。その即位は単なる権力掌握ではなく、国家制度・礼制・年号を含む包括的な政権交代として行われた。
『旧唐書』巻六〈則天皇后紀〉には、その経緯が次のように明記されている:
「九月九日壬午、則天太后革命、改國號曰周、改元為天授。……上尊號曰聖神皇帝。」
(劉昫等撰『旧唐書』巻六、中華書局点校本、頁123)
この記述は、武則天が「則天太后」として「革命」(王朝交替)を行い、「周」という新たな国号を定め、年号を「天授」とし、さらに「聖神皇帝」という尊号を臣下から奉られたことを示しており、彼女が単なる摂政や後宮の支配者ではなく、法的にも象徴的にも皇帝として君臨したことを裏付ける一次史料である。
1.2 『資治通鑑』による補強:即位儀礼の詳細
司馬光の編纂した編年体史書『資治通鑑』も、この出来事を詳細に記録している。ただし、注意すべきは、該当記事は巻二百四に収録されており、巻二百五ではないことである。
「壬午、則天太后御則天門、赦天下、改唐為周、改元天授。……加尊號曰聖神皇帝。」
(司馬光『資治通鑑』巻二百四、天授元年九月条、中華書局標点本)
ここでも「則天太后」と称されているが、これは即位直後の過渡期的呼称であり、「聖神皇帝」という尊号を正式に受領したことは明確である。また、「御則天門」とあるように、洛陽の則天門楼において大規模な即位儀礼が行われたことも確認できる。これは、皇帝即位に不可欠な儀礼的行為であり、武則天の地位が単なる「僭称」ではなく、国家儀礼によって公認されたことを示す。
二、中国史上における他の「女皇帝」候補の検討
2.1 北魏の霊太后(胡太后):皇帝格の行動だが即位せず
北魏末期の霊太后(胡氏)は、孝明帝の母として長期間摂政を行い、事実上の最高権力者となった。彼女は「朕」と自称し、臣下に「陛下」と呼ばせたとの記録がある。
『魏書』巻十三〈皇后列伝・肅宗靈太后伝〉には次のように記される:
「靈太后臨朝、稱『朕』、群臣上書曰『陛下』。」
(魏収『魏書』巻十三、中華書局点校本、頁320)
この記述は、霊太后が皇帝専用の自称・敬称を使用していたことを示しており、形式的には重大な越権行為である。しかし、彼女は一度も国号を改めず、尊号を「皇帝」と称することなく、あくまで「太后」として政務を執った。したがって、儀礼的・法的には皇帝とは認められない。
2.2 唐代の陳碩真:反乱中の「僭称皇帝」
永徽四年(653年)、睦州(現在の浙江省淳安県)で蜂起した女性指導者・陳碩真は、「文佳皇帝」と称して短期間ながら独立政権を樹立した。
『新唐書』巻三〈高宗本紀〉にはその記録が残る:
「(永徽四年十月)丙辰、睦州女子陳碩真反、僭號文佳皇帝。」
(欧陽脩・宋祁『新唐書』巻三、中華書局点校本、頁59)
ここで注目すべきは「僭號」(不正に称号を称する)という表現である。これは朝廷側の視点から、陳碩真の皇帝号が正統性を欠くものと見なされていたことを示している。事実、彼女の反乱は数カ月で鎮圧され、政権は継続性・制度的基盤を持たなかった。ゆえに、彼女を「中国史上の女皇帝」と見なすことは、史学的に妥当ではない。
2.3 元・清の女性統治者:慈禧太后の場合
清代の慈禧太后(孝欽顕皇后)は、同治・光緒両帝の治世を通じて約48年間にわたり垂簾聴政を行い、実質的な最高権力者となった。しかし、彼女が「皇帝」を称した記録は一切存在しない。
『清史稿』巻二百十四〈后妃伝二・孝欽顕皇后伝〉には、彼女の権力を示す記述はあるものの、皇帝号に関する言及は皆無である:
「同治初、太后垂簾聽政……及德宗嗣位、復聽政。頤和園休沐、政無巨細、皆取決焉。」
(趙爾巽等『清史稿』巻214、中華書局点校本)
このように、慈禧はあくまで「太后」として政務に関与し、形式・法理・礼制のいずれにおいても皇帝の位を僭称しなかった。これは、武則天との決定的な違いである。
三、宗教的正当化と政治装置:『大雲經』の役割
武則天は、自らの即位を儒教的秩序に反するものと見なされるのを防ぐため、仏教を活用して正当性を構築した。特に、『大雲經』の解釈が重要な役割を果たした。
『旧唐書』巻六には次のように記されている:
「有沙門十人偽撰《大雲經》、表上之、盛言神皇受命之事。」
(『旧唐書』巻六、頁122)
この記述は、十人の僧侶が『大雲經』を「偽撰」(意図的に編纂・改変)し、その中に「神皇(=武則天)が天命を受けて天下を治める」という内容を盛り込んだことを示している。これにより、武則天は弥勒仏の化身としてのイメージを形成し、即位の宗教的・神秘的正当性を確保したのである。
四、結論:武則天の「唯一性」の再確認
以上の検討より、以下の三点が明確となる。
- 武則天は、『旧唐書』『資治通鑑』などの正史に明記されている通り、国号変更・年号制定・尊号受領・即位儀礼を経て、**法的かつ儀礼的に「皇帝」として即位した**。
- 陳碩真は「僭號文佳皇帝」と称したが、それは反乱中の一時的自称にすぎず、国家としての正統性・継続性を全く欠いていた。
- 霊太后や慈禧太后など、実権を握った女性統治者は存在するが、いずれも「皇帝」を称さず、形式上は常に男性天子の代理にとどまっている。