唐(618年-907年)は中国史上、最も繁栄した王朝の一つとして知られる。しかし一方で、その289年の歴史の中で、皇位継承をめぐる権力闘争や宮廷クーデターが極めて頻繁に発生したことも特筆すべき事実である。特に初唐から盛唐にかけて、玄武門の変(626年)、神龍の変(705年)、景龍の変(710年)、先天の変(713年)など、多数の政変が記録されている。
一、皇位継承制度の曖昧さと嫡庶観念の弱体化
1.1 嫡長子相続制の形式的適用
中国の伝統的な皇位継承原則は「立嫡以長不以賢」(嫡子は長男を立てよ、賢さによってではない)という儒家的規範に基づく嫡長子相続制である。しかし唐代においては、この原則がしばしば形骸化し、皇帝の個人的判断や政治情勢により後継者が選ばれることが多かった。
『資治通鑑』巻百九十一(武徳七年条)には次のように記されている:
「建成、世民功業相侔,高祖常以二人不相容為憂。」
(建成と世民の功績は互角であり、高祖は常に二人が不和であることを憂慮していた。)
このように、李淵(高祖)は嫡長子である李建成を太子に立てつつも、次男李世民(後の太宗)の卓越した軍功を無視できず、両者の対立を助長した。結果として、李世民は武徳九年(626年)に玄武門の変を起こし、兄・弟を殺害して皇位を奪取した。これは嫡長子相続制が実効性を失っていたことを示す典型例である。
1.2 女帝武則天の登場と継承秩序の混乱
さらに、則天武后(武則天)による周王朝の樹立(690年-705年)は、男系継承という伝統的秩序を根本から覆す出来事であった。彼女は自ら皇帝となり、「聖神皇帝」と称した。このような異例の政権交代は、皇位継承における「血統」よりも「実力」や「政治的支援」が重視される風潮を強めた。
『新唐書・則天皇后伝』には次のようにある:
「雖宗室、大臣、將相,誅夷滅族者不可勝計,子弟親屬,莫敢異議。」
(宗室・大臣・将相であっても、誅殺・一族皆殺しにされた者が数えきれないほどおり、子弟や親族ですら異議を唱える者はいなかった。)
このように、武則天の専制は皇族内部の権力バランスを崩壊させ、その後の復辟(中宗復位)に伴う神龍の変(705年)や、さらなる権力闘争を引き起こす伏線となった。
二、禁軍(北衙六軍)と宮廷防衛体制の政治的利用
2.1 玄武門の地政学的意義
唐代の宮廷クーデターの多くが「玄武門」で発生している点は注目に値する。玄武門は大明宮・太極宮の北門であり、皇帝の居所に最も近い要害地点であった。この門を掌握することは、即ち皇帝の身柄を制することを意味した。
『旧唐書・太宗本紀』には玄武門の変の詳細が記されており、その中に以下の記述がある:
「六月四日,太宗率長孫無忌……等入玄武門……建成、元吉行至臨湖殿,覺變,即回騎欲歸宮府。太宗隨而呼之,元吉張弓射太宗,再三不彀。太宗乃射建成,殺之。」
(六月四日、太宗は長孫無忌らとともに玄武門に入った。建成・元吉が臨湖殿に至り、変に気づいてただちに馬を返し宮邸へ帰ろうとした。太宗がこれに続いて呼び止めたところ、元吉が弓を引いて太宗を射ろうとしたが、何度引いても弦が張れなかった。太宗は建成を射てこれを殺した。)
このように、玄武門は単なる城門ではなく、政変の舞台として戦略的に最重要視されていた。
2.2 北衙禁軍の台頭と将軍の政治介入
玄宗期以降、北衙六軍(左右羽林軍・左右龍武軍・左右神武軍)が皇帝直属の親衛部隊として強化され、その指揮官(特に宦官が兼任する「神策軍中尉」)が政権に大きな影響力を及ぼすようになった。特に安史の乱(755年-763年)後は、宦官が禁軍を掌握し、皇帝廃立にも関与するに至った。
『新唐書・宦者伝』には次のように記されている:
「自是天下之兵,皆屬宦官,天子廢立,由其可否。」
(これより天下の兵はすべて宦官に属し、天子の廃立もその可否にかかっていた。)
このように、軍事力が宮廷内部に集中し、かつそれが非正規の勢力(宦官)に握られたことで、政変のリスクは飛躍的に高まったのである。
三、皇族・外戚・宦官の三極構造と権力の流動性
3.1 皇族内部の派閥対立
唐代の皇族は非常に規模が大きく、皇子・皇孫・諸王が多数存在した。彼らはそれぞれ独自の幕僚団(文学館・王府僚属)を持ち、政治的ネットワークを形成していた。例えば、太宗の子である章懐太子李賢と母后武則天の対立、あるいは玄宗の息子たち(太子瑛・鄂王瑤・光王琚)が楊貴妃の一族との対立で処刑された事件(737年)など、皇族内部の緊張は常に存在した。
『資治通鑑』巻二百十四(開元二十五年条)には以下のようにある:
「上以太子瑛、鄂王瑤、光王琚同日賜死,天下冤之。」
(皇帝は太子瑛・鄂王瑤・光王琚を同日に死罪に処し、天下はその冤罪を嘆いた。)
このような粛清は、皇族内の不安定要素を排除する一方で、新たな怨嗟と反発を生み出し、さらなる政変の温床となった。
3.2 外戚と宦官の交替的台頭
唐代中期以降、外戚(例:韋后、楊国忠)と宦官(例:高力士、魚朝恩、仇士良)が交互に権力を握る構図が顕著になった。特に韋后は中宗の死後、自ら臨朝称制しようとしたが、李隆基(後の玄宗)と太平公主が連携して景龍の変(710年)を起こし、これを打倒した。
『旧唐書・玄宗本紀』には次のように記されている:
「臨淄王隆基與太平公主謀誅韋氏,遂率兵入宮,斬韋后及安樂公主。」
(臨淄王隆基は太平公主と謀り、韋氏を誅殺すべく兵を率いて宮中に突入し、韋后および安楽公主を斬った。)
このように、外戚の専横が政変を誘発し、その打倒後に新たな権力者(ここでは李隆基)が台頭するという循環が繰り返された。
四、儒家的倫理の相対化と実力主義の浸透
4.1 功績主義の優先
唐代は科挙制度の整備により、一定程度の能力主義を採用していたが、皇族内部においても「功績」が継承資格として重視される傾向があった。李世民が兄を殺して即位した際、その正当性は「天下を平定した功」に基づくものとされた。
『貞観政要』巻六〈悔過〉には太宗の次のような言葉が記されている:
「朕每覽前代帝王,居安忘危,處治忘亂,靡不亡滅。古人云:『生於憂患,死於安樂。』朕每以此自戒。」
(朕は常に前代の帝王を顧みるに、安寧にあって危機を忘れ、治世にあって乱世を忘れれば、いずれも滅亡せざるはなし。古人は言う、「憂患に生まれ、安楽に死す」と。朕は常にこれをもって自らを戒めている。)
この発言は、伝統的倫理よりも国家安寧と現実的統治を優先する思考を示しており、政変を正当化する論理ともなり得た。
4.2 道教・仏教の影響と儒家倫理の希薄化
また、唐代は道教を国教としつつ、仏教も広く受容された時代である。特に武則天は仏教を利用して自らの統治を神聖化した(『大雲経疏』の編纂)。このような宗教的多元主義は、儒家的忠孝観念を相対化し、「君臣の義」よりも「時勢の利」が重視される風潮を助長した。
五、結論
以上のように、唐朝における宮廷クーデターの頻発は、単一の要因によるものではなく、制度的・人的・思想的要因が複合的に絡み合った結果である。第一に、嫡長子相続制の実効性の欠如と皇位継承の不確実性が、皇子間の熾烈な競争を生んだ。第二に、玄武門を中心とする禁軍体制が、軍事力による政権掌握を可能にした。第三に、皇族・外戚・宦官という三極構造が権力の流動性を高め、安定した継承を阻害した。第四に、儒家的倫理よりも実力・功績・時勢が重視される政治文化が、政変の正当化を容易にした。