北宋の初代皇帝である太祖趙匡胤(927年-976年)の死因については、歴史学界において長らく論争が続いてきた。特に「燭影斧声(しょくえいふせい)」と呼ばれる逸話は、その死が弟である太宗趙光義(939年-997年)による暗殺であった可能性を示唆しており、後世の史家や文人によって繰り返し議論されてきた。
一、『宋史』における趙匡胤の崩御記録
正史である『宋史』(元代・脱脱ら編纂)は、趙匡胤の死に関する最も公式な記録を提供している。同書巻1《太祖本紀》には次のように記されている:
「冬十月壬午夜、帝崩於萬歳殿。」
(『宋史』巻1〈太祖本紀〉)
この記述は極めて簡潔であり、死因や状況に関する詳細は一切記されていない。このような記述の欠落は、後世の疑念を招く一因となった。また、『宋史』は元代に編纂されたものであり、宋代当時の記録を忠実に再現しているとは限らない点にも留意が必要である。
二、「燭影斧声」説の起源:『續湘山野録』の記載
趙光義による謀殺説の最も有名な出典は、北宋末から南宋初期にかけて活動した文人・文瑩(ぶんえい)が著した筆記『續湘山野録』(ぞくしょうざんやろく)である。同書には次のような記述がある:
「急傳宮嬪,但聞斧聲燭影下,太宗時或呼晉王。俄而帝崩。」
(『續湘山野録』)
この一節は、趙匡胤が崩御した夜、宮中に「斧の音」が響き、「燭影(ろうそくの灯りの影)」の下で趙光義(当時は晋王)が呼び出されていたという情景を描写している。この記述は、直接的な謀殺の証拠ではないものの、不審な状況を暗示しており、「燭影斧声」という語の由来ともなっている。
ただし、『續湘山野録』は私的な筆記であり、公的な史書ではない。そのため、その記述の信憑性については慎重な検討が求められる。
三、司馬光の『涑水記聞』における反証的記述
北宋の著名な政治家・史家である司馬光(しばこう)は、その著作『涑水記聞』(しゅくすいきぶん)において、趙匡胤の崩御とその後の皇位継承について別の視点を提示している:
「太祖初晏駕,時已四鼓,孝章宋后使内侍王繼恩召秦王德芳。繼恩以太祖傳位晉王之志素定,乃不召德芳,徑趨開封府召晉王。」
(『涑水記聞』巻1)
この記述によれば、趙匡胤の皇后・宋氏(孝章皇后)は、趙匡胤の息子である秦王・趙徳芳を後継者として呼び寄せようとしたが、宦官の王継恩が「太祖は既に晋王(趙光義)に皇位を譲ることを決めていた」と判断し、自ら趙光義を呼び寄せたという。この話は、趙光義の即位が必ずしも不正ではなく、むしろ趙匡胤の意思に基づくものだった可能性を示唆している。
司馬光は北宋中期の人であり、当時の宮廷事情に比較的近い立場にあったことから、この記述には一定の信頼性があると評価されることが多い。
四、『宋史全文』および『資治通鑑』の記述との整合性
南宋末期に成立した編年体史書『宋史全文』(作者未詳)は、『宋史』や『續資治通鑑』などを基に編纂されており、趙匡胤の崩御に関しては以下のように述べている:
「癸丑夕、帝與晉王光義飲、夜分乃罷。是夕、帝崩。」
(『宋史全文』巻2)
この記述は、趙匡胤が崩御前夜に趙光義とともに酒宴を楽しんでおり、深夜まで一緒に過ごしていたことを示している。これは『續湘山野録』の「燭影斧声」の記述と符合する部分もあるが、謀殺の明確な証拠は含まれていない。
一方、司馬光が編纂した『資治通鑑』(ししつうがん)は、五代十国から北宋初期までの出来事を扱っているが、趙匡胤の崩御については詳細な記述を避けている。これは、司馬光自身が太宗系の正当性を重んじていたため、あるいは当時の政治的配慮から意図的に曖昧にした可能性がある。
五、現代史学における評価と結論
上記の史料を総合すると、以下の点が明らかとなる:
- 直接的な謀殺の証拠は存在しない。『宋史』などの正史には死因に関する記述がなく、『續湘山野録』の記述もあくまで噂や風説の域を出ない。
- 司馬光の記述は趙光義の即位を正当化する傾向にあるが、それが完全に虚偽であるとは断定できない。
- 「金匱之盟」(きんきのめい)という伝承(杜太后が趙匡胤に「兄終弟及」を命じたとする逸話)も、趙光義の即位を正当化するために後世に創作された可能性が高いとされるが、これも史料批判の対象となっている。
現代の中国史研究者、例えば鄧広銘(とうこうめい)や王曾瑜(おうそうゆう)らは、趙光義が兄を毒殺または暴力で殺害したという説には懐疑的であり、むしろ政変や即位の合法性を巡る政治的プロパガンダとして「燭影斧声」説が広まったと考えている。
結論
趙匡胤が弟・趙光義に謀殺されたという説は、『續湘山野録』の記述に端を発し、後世の文学的想像や政治的動機によって拡大されてきた側面が強い。しかし、現存する一次史料の中には、これを裏付ける決定的な証拠は存在しない。むしろ、司馬光の『涑水記聞』などに見られるように、趙光義の即位はある程度の合意や前例に基づいて行われた可能性が高い。
したがって、趙匡胤の死が趙光義による謀殺であったとする説は、有力な仮説ではあるものの、現段階では確定的な史実とは認めがたい。今後の新たな史料の発見や、既存史料のさらなる精緻な分析によって、この謎が解明されることが期待される。