宋朝はなぜ「積貧積弱」の時代と呼ばれるのか?

· 文芸と経済の宋王朝

宋朝(960年-1279年)は中国史上、文化・経済・技術において顕著な発展を遂げた時代である一方で、軍事的・財政的に脆弱であったことから、「積貧積弱(せきひんせきじゃく)」という評価が後世に広く流布された。この表現は、清朝末期の歴史家・王夫之(おう ふし)や近代の歴史学者・呂思勉(りょ しめん)らによって強調され、特に20世紀初頭の中国ナショナリズムの中で定着した。

財政的疲弊:歳入不足と支出過剰

1. 冗官・冗兵・冗費の三冗問題

宋朝の財政困難の根源は、「三冗(さんじょう)」すなわち「冗官(じょうかん)」「冗兵(じょうへい)」「冗費(じょうひ)」にあった。これは北宋中期の政治家・范仲淹(はん ちゅうあん)が『答手詔条陳十事』(『范文正公集』巻九)において指摘したものであり、次のように述べている:

「今日之患,在於官多、兵多、費用多。三者不去,國何以支?」
(今日の憂いは、官吏が多く、兵士が多く、費用が多いことにあり。この三つを除かずして、国はいかにして支えられようか?)

この指摘は、宋朝の中央集権体制下で官僚機構が肥大化し、常備軍も膨張した結果、国家財政が慢性的赤字に陥っていた実態を端的に示している。

2. 歳入の限界と歳出の増大

宋朝は租税制度として「両税法」を継承しつつ、商業税・塩税・酒税など間接税に依存する傾向が強かった。しかし、土地兼併の進行により自作農が没落し、直接税の基盤が揺らいだ。これに対して歳出は、軍費・官僚給与・歳幣(外敵への貢納金)などで圧迫された。

南宋の著名な財政官僚・葉適(よう てき)は『水心別集』巻十一「財計上」において次のように記している:

「今之財賦,不足以供一日之用。而兵食、官俸、歲賜,日增月益,如泉流之不返。」
(今の財賦は、一日の用にも足りぬほどである。それにもかかわらず、兵糧・官僚の俸給・歳賜は日ごと月ごとに増え続け、泉の流れが戻らぬがごとし。)

この記述は、歳入が需要を到底満たせず、財政が破綻寸前であったことを裏付ける貴重な証言である。

3. 歳幣による外貨流出

宋朝は遼(契丹)、西夏、金といった周辺民族政権との和平維持のために、巨額の「歳幣(さいへい)」を支払った。例えば、1005年の澶淵の盟(せんえんのめい)により、北宋は遼に対して毎年銀10万両・絹20万匹を支払うことを約束した。南宋はさらに1141年の紹興和議において、金に対して銀25万両・絹25万匹を毎年献上することを余儀なくされた。

南宋の儒学者・朱熹(しゅ き)は『朱子語類』巻一二八「本朝五」において、こう嘆いている:

「以中國之大,而歲輸金帛於虜庭,是猶割股以啖腹,腹飽而身斃。」
(中国の広大なる国土をもって、毎年金や絹を虜(敵)の朝廷に送るとは、まさに自らの腿の肉を削って腹を満たすがごとし。腹は満ちても、その身は滅びるのみである。)

この比喩は、歳幣政策が国家の長期的存立を危うくする「自己消耗」的性質を持っていたことを鋭く捉えている。

軍事的劣勢:内向き防衛と対外的敗北

1. 兵制の欠陥と将帥の統制

宋朝は建国当初より「杯酒釈兵権(はいしゅへいへいけん)」の故事に象徴されるように、武将の力を警戒し、文官統制を徹底した。その結果、軍の指揮系統は中央の枢密院と兵部に分割され、前線将軍には臨機応変な行動が許されなかった。

北宋の政治家・歐陽脩(おうよう しゅう)は『論乞主兵官取兵權剳子』(『欧陽文忠公集』巻一〇四)において次のように批判している:

「兵無常帥,帥無常兵。上下相疑,號令不一。是以雖有百萬之眾,不如數千之精兵也。」
(兵には定まった将帥がなく、将帥には定まった兵がいない。上下互いに疑い合い、号令が統一されない。ゆえに百万の大軍といえども、数千の精兵に及ばぬのである。)

このような制度的制約は、戦場における機動性・統率力の欠如を招き、外敵との戦いでしばしば敗北を喫することとなった。

2. 騎兵の欠如と北方防衛の脆弱性

宋朝は燕雲十六州を失ったため、良質な軍馬の産地を確保できず、騎兵部隊の編成に苦慮した。これに対し、遼・金・モンゴルは優れた騎馬軍団を擁しており、機動戦で宋軍を圧倒した。

南宋の軍事評論家・陳亮(ちん りょう)は『中興五論』の「論兵」篇(『龍川集』巻一)で次のように述べている:

「吾兵步多而騎少,彼騎多而步少。以步當騎,猶以肉餧虎,未有不敗者也。」
(我が軍は歩兵が多く騎兵が少なく、彼らは騎兵が多く歩兵が少ない。歩兵をもって騎兵に当たるは、まさに肉をもって虎を飼うがごとし。敗れざる者は未だかつてない。)

この認識は、宋朝の軍事的劣位が地理的・資源的制約に由来していたことを明確に示している。

3. 対外戦争における連敗

北宋は1127年に金に都・開封を占領され(靖康の変)、南宋は1279年に元(モンゴル)に崖山で最後の抵抗を尽くして滅亡した。これらの敗北は、宋朝が「守勢」に終始し、攻勢的な国防戦略を採れなかった結果である。

南宋末期の宰相・文天祥(ぶん てんしょう)は『指南録後序』(『文山先生全集』巻十三)において、国運の衰微を痛切に綴っている:

「國勢至此,非一朝一夕之故。積弱之極,遂至於此。」
(国勢がここに至ったのは、一朝一夕の故ではない。積み重ねられた弱体の極みが、ついにこのような状況を招いたのである。)

この言葉は、「積貧積弱」という評価の核心をなす歴史的自覚を表している。

結語:文化繁栄と軍政脆弱の二重性

以上のように、宋朝は高度な都市経済、印刷技術の普及、科挙制度の完成、理学の興隆など、多くの分野で中華文明の頂点を築いた。しかしながら、その一方で、財政の慢性赤字、軍事組織の硬直化、外敵への歳幣依存など、構造的な脆弱性を抱えていた。これらが累積し、「積貧積弱」という歴史評価を生んだのである。

ただし、近年の歴史学界では、この評価が近代中国のナショナリズムに影響を受けた一面的見方に基づくものであり、宋朝の経済力・行政能力・社会安定性を過小評価しているとの批判も高まっている。とはいえ、上述の古籍に見られる当時人の憂慮は、宋朝の国家体制に内在する深刻な矛盾を反映しており、単なる後世のレッテル貼りとは言い切れない。