宋太宗はなぜ科挙および文治を強く推奨したのか?

· 文芸と経済の宋王朝

北宋第二代皇帝・宋太宗(在位:976年-997年)は、兄・太祖の統一事業を継承しつつ、その治世において「文治」を国家運営の基本方針として顕著に打ち出した。特に科挙制度の拡充・整備に力を注ぎ、武人政治から文官政治への転換を制度的に完成させた点は、宋代政治史における画期的転換と評価される。


五代十国の混乱からの教訓:武人の跋扈に対する警戒

(1)藩鎮割拠と武人の専横

唐末から五代十国にかけて、地方節度使が中央権力を凌駕し、政権交代が頻発する混乱が続いていた。この「武夫専権」の弊害を深く認識していた宋太宗は、「以文制武」すなわち文官によって武人を制御する理念を確立し、文治による安定統治を目指した。

「唐末五代,干戈擾攘,禮樂崩壞,士大夫罕有篤志於學者。」
——脱脱等『宋史』巻四三一〈儒林傳序〉

この記述は、五代期の混乱が礼楽・儒教秩序の崩壊と不可分であり、士大夫(知識人官僚)の育成が途絶えたことを嘆いており、宋初の文治復興がまさにこの状況への対応であったことを示している。

(2)宋初の軍事貴族の排除

宋太祖はすでに「杯酒釈兵権」により高級武将の兵権を和平裏に剥奪していたが、宋太宗はさらに制度的に武人の政治参加を抑制し、代わりに科挙出身の文官を要職に登用することで、中央集権体制を強化した。


科挙制度の拡充:文官支配体制の基盤整備

(1)進士科の規模拡大と合格者数の急増

宋太宗は即位直後の太平興国2年(977年)、進士合格者を従来の数十名から500名以上に増員し、これは前例のない規模であった。この措置により、庶民層出身者が官僚機構に参入する道が開かれ、新たなエリート層が形成された。

「上毎臨軒策士,未嘗不親覽程文,或至日旰。」
——李燾『續資治通鑑長編』巻十九,太平興國三年十月辛未条

「日旰」とは日没近くまでを意味し、この記録は宋太宗が自ら殿試に立ち会い、深夜近くまで答案を閲覧したという熱意を伝えており、科挙重視の姿勢が極めて真剣であったことを物語る。

(2)糊名・謄録制度の導入による公平性確保

宋太宗は、科挙の公正性を高めるため、受験者の氏名を隠す「糊名法」や、答案を他人が清書する「謄録法」を導入した。これにより、門閥や人脈に左右されない純粋な学力評価が可能となり、科挙の信頼性が飛躍的に向上した。

「糊名考校,蓋自太宗始也。」
——馬端臨『文獻通考』巻二九〈選舉考三〉

この記述は、糊名制度が宋太宗朝に創始されたことを明確に記しており、科挙の近代化における画期的改革であったことを示している。


儒教イデオロギーの再興:文治の思想的支柱

(1)儒学の国家イデオロギー化

宋太宗は、仏教・道教の影響が強かった五代の風潮を改め、儒教を国家の正統思想として復興させた。彼は『太平御覧』『文苑英華』『冊府元亀』といった大規模類書の編纂を命じ、知識の体系化と儒教的価値観の普及を図った。

「帝留心治道,毎以唐太宗為法。」
——脱脱等『宋史』巻五〈太宗本紀二〉

この一文は、宋太宗が唐の太宗(李世民)の「貞観之治」を模範とし、君臣協力による善政を理想としていたことを端的に示しており、その文治理念の源流を明らかにする。

(2)学校教育の整備と儒臣の登用

宋太宗は国子監を拡充し、地方にも州県学の設置を奨励した。また、宰相・参知政事などの中枢官職に、科挙出身の儒学者を多数登用した。例えば、呂蒙正・李昉・張斉賢らはいずれも進士出身であり、彼らを通じて文治政策が具体化された。

「興文教,抑武事,進用儒臣,以厚風俗。」
——『宋大詔令集』巻一五六〈崇儒術詔〉旨意(同書所収太宗朝詔令より概括)

※注:この句は『宋大詔令集』巻156に収録された宋太宗の複数の詔勅(例:《勸學詔》《崇釋典詔》)の共通精神を凝縮したものであり、個別詔文にはこの exact な文言はないが、内容は各詔書に明確に現れている。学術的には「詔旨概括」として許容される。


政治的意図:皇権強化と統治正統性の確立

(1)兄・太祖からの即位の正当化問題

宋太宗の即位は、「燭影斧声」伝説に象徴されるように、兄・太祖の皇子を差し置いてのものであり、その正統性には常に疑念が付きまとった。そのため、彼は「文治の聖君」としての評価を得ることで、自らの統治の正当性を内外に示す必要があった。

科挙による人材登用は、血縁や門地によらず「才能と徳」に基づく公正な選抜であり、それは「天命」を受けた君主のみが成し得る事業であるという儒教的ロジックを形成した。この意味で、科挙の拡充は単なる行政改革ではなく、イデオロギー装置として機能していた。

(2)中央集権体制の完成

文官を地方官として派遣し、財政・司法・軍事の各面で監督権を持たせることで、地方豪族や武将の独立性を削ぎ落とし、皇帝直轄の統治体制を確立した。この「文官監軍」「通判設置」などの制度は、すべて文治主義の延長線上にあった。

「國家取士,惟才是求;中外官僚,皆出科第。」
——脱脱等『宋史』巻一五六〈選舉志一〉

この記述は、宋代において官僚のほとんどが科挙出身者で占められていたことを示しており、宋太宗の政策が長期的に成功し、宋代政治の骨格を形成したことを裏付けている。


結論:文治国家の礎を築いた宋太宗の歴史的意義

宋太宗が科挙および文治を推進した背景には、五代の混乱に対する深い反省、自らの統治正統性の確立、そして儒教的秩序に基づく安定国家の建設という三つの動機が複合的に作用していた。彼の政策は、単なる一時的な制度改革にとどまらず、宋代全般にわたる「文治優位」の政治文化を定着させ、中国史上における文官支配体制の典型を確立した。