宋朝人の日常飲食は現代と比べてどのような点が異なっていたのでしょうか?

· 文芸と経済の宋王朝

中国の歴史において、宋代(960年-1279年)は経済・文化・技術が高度に発展した時代であり、特に都市生活や市民文化の隆盛は顕著であった。その中でも、飲食文化は極めて豊かで多様であり、現代の中華料理の基礎を築いたとも言われる。


一、主食の構成と穀物の使用

1. 宋代の主食:米と麦の地域差

宋代においては、すでに南北の食文化の分岐が明確になっており、南方では米飯が主食、北方では小麦粉製品(麺・饅頭など)が主流であった。これは気候と農業生産の違いに由来する。南宋の都・臨安(現在の杭州)では、白米の消費が極めて盛んであった。呉自牧の『夢粱録』巻十六「米鋪」には次のように記されている:

「杭城米市極盛,每日所食白米不下數萬石。」
(『夢粱録』巻十六)

この記述は、臨安市民が毎日大量の白米を消費していたことを示しており、精米技術および流通網の整備が進んでいたことを裏付けるものである。

一方、北宋の首都・開封では、小麦製品が広く消費されていた。孟元老の『東京夢華録』巻二「飲食果子」には、次のような記載がある:

「胡餅店即賣門油、菊花、寬焦、側厚、油碢、髓餅、新樣滿麻。」
(『東京夢華録』巻二)

ここで挙げられる「胡餅」「髓餅」などは、いずれも小麦粉を用いた焼き菓子またはパン類であり、北方では米よりも小麦が主食として普及していたことがわかる。

2. 現代との比較

現代中国でも、依然として南米北麦の傾向は残っているが、交通・物流の発達により地域間の食文化の融合が進み、全国どこでも米・麺両方が容易に入手可能である。また、精白米の普及率は宋代よりも遥かに高く、庶民レベルでも高品質な米が日常的に消費されている。


二、副食と調味料の使用

1. 野菜・豆製品・肉類の利用

宋代の副食は非常に多様であり、野菜・豆腐・魚介・肉類などが日常的に食されていた。豆腐は南宋期にはすでに文人層の食卓にも登っており、林洪の『山家清供』には次のような料理が記される:

「採芙蓉花,去心蒂,湯焯之,同豆腐煮,名曰雪霞羹。」
(『山家清供』「雪霞羹」)

この記述は、豆腐と食用花を組み合わせた精緻な料理が存在していたことを示しており、植物性タンパク質の利用が洗練されていたことを反映している。

肉類に関しては、牛は農耕に不可欠なため殺畜が法令で制限されており、主に豚・鶏・羊が食用とされた。『宋刑統』巻十八には、

「諸故殺官私牛者,徒一年半。」
(『宋刑統』巻十八「厩庫律」)

とあり、耕牛の屠殺が厳しく罰せられていたことが確認できる。このため、牛肉は市場で極めて稀であった。『東京夢華録』巻二には、「豬肉、羊肉、鵝鴨、鶏子」などが市中に豊富に売られていたと記され、牛肉の記載はほとんど見られない。

2. 調味料の発達

宋代は醤油の前身となる「豆醬(とうしょう)」や「豉(し)」(発酵大豆)が広く使われ、味の複雑化が進んだ時代である。『山家清供』「柳葉韭」条には、

「以醬、豉、薑、椒調和。」
(『山家清供』)

とあり、複数の調味料を併用して風味を引き立てる技法がすでに確立していたことが窺える。このような調理法は、現代の中華料理における複合調味の原型と見ることができる。

3. 現代との比較

現代では化学調味料(MSGなど)や工業的に製造された醤油・酢が主流となり、味の標準化が進んでいる。一方、宋代はすべて天然発酵による調味料が使われており、風味は地域ごとに大きく異なっていた。また、冷蔵技術がないため、保存食(塩漬け・乾物・発酵食品)の比重が現代より高かった。


三、食事の形式と時間帯

1. 食事回数と時間

宋代以前は一日二食(朝食・夕食)が一般的であったが、宋代になると都市部を中心に一日三食制が定着しつつあった。朱彧の『萍洲可談』巻一には、次のように記されている:

「都人日三食。」
(『萍洲可談』巻一)

これは、北宋末の首都・開封の住民がすでに一日三回の食事をとっていたことを示しており、商業活動の活発化と労働時間の変化が背景にあると考えられる。南宋の『夢粱録』巻十三「夜市」にも、

「夜市直至三更尽,才五更又復開張。」
(『夢粱録』巻十三)

とあり、深夜まで飲食店が営業し、早朝には再開するという24時間近い商業活動が存在していたことが確認できる。

2. 食事のスタイル

宋代にはすでに高卓と椅子を用いた「卓袱式」の食事が普及し、複数の料理をテーブル中央に並べて共有する形式が見られた。これは唐代までの一人ずつの膳(ぜん)とは大きく異なる。『東京夢華録』巻五「宴會」には、

「列案設席,珍饈百品,賓主共食。」
(『東京夢華録』巻五)

とあり、共同食事の文化が確立していたことが窺える。

3. 現代との比較

現代中国でも三食制は普遍的であり、共同食事のスタイルも継承されている。しかし、宋代はまだ箸と椀を中心とした食器体系であり、スプーンの使用は限定的だった。また、椅子と高卓の使用が宋代に普及したが、それ以前は床座りが主流であった。現代では完全に椅子・テーブルが標準化されており、姿勢や食事空間の構造も大きく変化している。


四、外食文化と飲食店の発達

宋代は世界史上でも稀に見るほど外食文化が発達した時代である。特に北宋の開封・南宋の臨安には、昼夜を問わず営業する飲食店(「酒楼」「食店」「茶坊」など)が林立していた。『東京夢華録』巻三「馬行街舖店夜市」には、

「夜市直至三更尽,才五更又復開張。如要鬧去處,通曉不絕。」
(『東京夢華録』巻三)

と記され、夜の市場が深夜3時(三更)まで営業し、午前4時頃(五更)には再び開店するという、ほぼ24時間体制の商業活動が存在していたことがわかる。

南宋の『武林旧事』巻六「市食」には、臨安の飲食店の多様性について次のように記されている:

「又有專賣筍、專賣鵝、專賣魚、專賣糖蜜、專賣涼水者。」
(『武林旧事』巻六)

また、『夢粱録』巻十六には「索粉専売」(麺類専門店)の記述もあり、すでにジャンル別飲食店が発達していたことが確認できる。これは、現代のフードコートや専門レストランの原型と見ることができる。


五、飲料と嗜好品

1. 茶文化の隆盛

宋代は点茶(てんちゃ)が主流であり、茶葉を粉末にして湯を注ぎ、茶筅(ちゃせん)で泡立てる「抹茶法」が宮廷・文人層を中心に流行した。宋徽宗の『大観茶論』には次のようにある:

「茶之為物,擅甌閩之秀氣,鍾山川之靈禀。……碾茶為末,擊拂成沫,其色貴白。」
(『大観茶論』「色」)

これは、茶の色・香・味に対する審美的感覚が極めて洗練されていたことを示しており、日本に伝わった後、茶道として発展する源流となった。

2. 酒と甘味飲料

酒類も多様で、米酒(黄酒)が主流だったが、果実酒・薬酒なども存在した。また、夏季には冷たい飲み物が市中に売られていた。『夢粱録』巻十三「暑薬涼水」には、

「夏月則賣冰雪甘草湯、涼水、梅漿。」
(『夢粱録』巻十三)

とあり、氷を用いた冷飲がすでに商業化されていたことが記録されている。氷は冬に採取・貯蔵され、夏に使用されていた。

3. 現代との比較

現代では緑茶・烏龍茶・紅茶などが主流で、点茶は日本に伝わった後、日本茶道として発展した。また、冷蔵技術の発達により、氷入り飲料は季節を問わず享受できる。さらに、コーヒー・炭酸飲料などの西洋系飲料も普及しており、飲料選択肢の多様性は宋代を遥かに超えている。


結論

宋朝人の日常飲食は、その時代の経済的繁栄・都市化・技術革新を反映して、極めて多様かつ洗練されていた。主食の地域差、副食の豊富さ、調味技術の発達、三食制の普及、外食文化の隆盛、そして茶・酒・冷飲の存在は、現代中華料理の多くの要素がすでにこの時代に萌芽していたことを示している。