趙光義は本当に「燭影斧声(しょくえいふせい)」によって趙匡胤を謀殺し、帝位に就いたのだろうか?

· 文芸と経済の宋王朝

北宋初年の皇位継承をめぐる最大の謎として、後世に語り継がれてきた「燭影斧声(しょくえいふせい)」の事件がある。これは、宋の初代皇帝・太祖趙匡胤(ちょうきん)が開宝九年(976年)に急死した際、その弟である趙光義(後の太宗)が不審な状況下で即位したことを指す。この事件は、単なる宮廷内の陰謀話にとどまらず、中国中世における正統性・継承制度・歴史記述のあり方を問う重要なテーマとなっている。


一、「燭影斧声」伝説の起源と内容

1.1 文芸的描写としての「燭影斧声」

「燭影斧声」という語自体は、後世の文人の創作的表現であり、正史には直接登場しない。しかし、そのイメージは北宋末から南宋期にかけて広まり、特に文人・僧侶の筆によって神秘化・ドラマ化されていった。最も代表的な出典は、北宋の僧・文瑩(ぶんえい)が撰した『湘山野録』(しょうざんやろく)である。

『湘山野録』巻上
「……亟命召晋王,延入寢殿。俄而陰霾四起,天地陡晦。……但遙見燭影下晋王時或避席,有不可勝之狀。俄而聞斧聲,燭影搖紅……是夕,太祖崩。」

この記述は、夜中に雪が深く、太祖が弟の晋王(趙光義)を寝殿に呼び入れ、側近をすべて退けた後、燭台の影の中で「斧の音」が聞こえ、その後すぐに太祖が崩御したと記す。ここでいう「斧」は、文字通りの武器ではなく、当時の宮廷儀礼用具である「玉斧」——笏(しゃく)のような短い柄付きの杖——を床に叩きつけた音と解釈されることもあるが、暗殺を暗示する比喩として読まれることが多い。

1.2 正史との乖離

一方で、正史である『宋史』太祖本紀には、このような不穏な描写は一切見られない。

『宋史』巻一〈太祖本紀〉
「(開宝九年)冬十月壬午,帝不豫。癸丑,帝崩于万歳殿,年五十。」

ここでは、太祖が病気になり、数日後に万歳殿で崩御したと淡々と記され、趙光義の立ち会いや異常な状況については言及がない。このように、正史と野史(逸話的史料)の間に大きな隔たりが存在する。


二、趙光義即位の公式根拠と「金匱之盟」

2.1 杜太后の遺命と兄終弟及制

趙光義の即位を正当化するため、北宋朝廷は「金匱之盟(きんきしめい)」という伝承を提示した。これは、太祖・太宗の母である杜太后が臨終の際に、国家安泰のためには成人した君主が必要であるとして、太祖の死後は弟の光義が継ぎ、さらにその次は弟の廷美(ていび)、そして再び太祖の子・徳昭(とくしょう)に継がせるという「兄終弟及(けいしゅうていたつ)」の継承順序を定めたという内容である。

この盟約は、宰相の趙普(ちょうふ)が金の箱(金匱)に秘蔵していたとされ、太宗即位後に公表された。

『續資治通鑑長編』巻二
「太后問帝曰:『汝知所以得天下乎?』……『吾死,汝即位,當傳位於汝弟。四海至廣,萬幾至重,能立長君,社稷之福也。』帝頓首悲泣曰:『敢不如母教!』太后顧謂趙普曰:『爾同記吾言,不可違也。』普即就榻前為誓書,藏之金匱。」

この記述は、即位の合法性を強調する意図が強く、後世の歴史家からはその真偽について多くの疑念が呈されている。特に、趙普は太宗即位後、一時失脚していたが、後に復権し「金匱之盟」を公表することで政治的に貢献した経緯があり、その記録の客観性には疑問符がつく。

2.2 即位直後の政治的混乱

太宗即位直後、太祖の息子である趙徳昭・趙徳芳(とくほう)は若年ながらも皇位継承の有力候補であった。しかし、徳昭は太平興国四年(979年)に自害し、徳芳も太平興国六年(981年)に若死にする。さらに、太宗の弟・趙廷美も謀反の疑いで追放され、雍熙元年(984年)に死去している。

『宋史』巻二百四十四〈宗室伝〉
「魏王廷美……坐交通賔客、有異志、貶房州。尋卒、年三十八。」

これらの出来事は、太宗が血縁上のライバルを粛清したとの見方を強める材料となり、「金匱之盟」が事後的な正当化装置であった可能性を示唆している。


三、同時代史料における矛盾と沈黙

3.1 司馬光『涑水記聞』の記述

北宋の名臣・司馬光(しばこう)は、私的な雑録『涑水記聞(しゅくすいきぶん)』において、太祖崩御時の状況を次のように記す。

『涑水記聞』巻一
「太祖初晏駕,時已四鼓。孝章宋后使內侍都知王繼恩召德芳。繼恩以太祖傳位晉王之志素定,乃不召德芳,徑趨開封府召晉王。……王大驚,猶豫不行。繼恩曰:『事久,將為他人有矣。』遂與俱進。」

この記述によれば、皇后は太祖の末子・徳芳を後継者として呼ぼうとしたが、宦官・王継恩が「太祖の本意は晋王にある」と判断し、自ら光義を呼び寄せたという。光義自身も即位を躊躇(ちゅうちょ)しており、強引に宮中に連れて行かれたとされる。この逸話は、即位が予定調和ではなかったことを示唆し、同時に「兄終弟及」が既定路線でなかった可能性を示している。

3.2 正史編纂の政治的制約

『宋史』は元朝によって編纂されたものであり、宋代の実録・国史を基にしているが、これらは太宗以降の政権によって厳密に管理されていた。特に太宗朝は、歴史記述を統制し、自らの即位を正当化するためのナラティブを構築することに力を注いだ。

『東都事略』巻三
「太祖崩,上即皇帝位。群臣奉冊寶,中外晏然。」

このように、南宋期の史書ですら、即位を「内外静謐」と描写し、混乱や異論を否定する傾向が強い。これは、宋代を通じて「太宗正統論」が国家イデオロギーとして維持されたことを反映している。


四、現代史学における評価と結論

4.1 「暗殺説」の支持と懐疑

20世紀以降の中国史研究では、「燭影斧声」を文字通りの暗殺事件と見る立場と、あくまで後世の創作・比喩にすぎないとする立場が対立している。
例えば、鄧広銘(とうこうめい)は『宋太祖太宗授受辨』において、「金匱之盟」は完全な偽作であり、太宗はクーデター的に即位したと主張した。一方、関履(かんりょ)や王瑞来(おうずいらい)らは、即位過程に不透明な点はあるものの、暗殺の証拠はなく、むしろ宋代の継承制度の未成熟さに起因すると分析している。

4.2 史料批判の重要性

いずれにせよ、現存する史料の多くは、太宗政権下あるいはその影響下で編纂されており、客観的記述とは言い難い。『湘山野録』のような野史は文学的色彩が強く、『宋史』のような正史は政治的意図に満ちている。したがって、「燭影斧声」が物理的暗殺を意味するかどうかを断定するのは困難である。

しかし、以下の点は確実に言える:

これらの事実は、趙光義の即位が「平穏無事」ではなかったことを裏付ける間接的証拠となる。


結論

「燭影斧声」は、歴史的事実としての暗殺事件を指すものではなく、むしろ宋代以降の知識人が抱いた政治的不安と正統性への疑念を象徴する文化記号である。しかし、その背後には、趙光義が兄・趙匡胤の死に乗じて皇位を掌握し、その後の粛清を通じて支配を固めたという政治的リアリティが存在する。