赤壁の戦いにおける火攻めは、本当に「東風を借りる」ことで勝利したのだろうか?

· 三国志の時代

赤壁の戦い(西暦208年)は、中国三国時代初期の決定的な戦役であり、曹操率いる北方勢力と、孫権・劉備連合軍との間で長江中流の赤壁(現在の湖北省赤壁市付近)で行われた。この戦いにおいて、連合軍が火攻めによって曹操軍を撃破したことは広く知られている。特に『三国志演義』を通じて、「諸葛亮が東風を借りた」という逸話が後世に深く浸透している。しかし、史実としての火攻めの成功が果たして「東風を借りる」という超自然的・奇術的な要素に依拠していたのか、あるいは気象条件や戦略的準備によるものだったのかは、歴史学的に慎重に検討されるべき課題である。

正史『三国志』における赤壁の戦いの記述

周瑜と黄蓋の火攻め作戦

まず、最も信頼される一次史料である陳寿『三国志』(西晋、3世紀末成立)には、赤壁の戦いにおける火攻めについて次のように記されている:

「瑜部将黄盖曰:『今寇衆我寡,難与持久。然観操軍船艦首尾相接,可焼而走也。』乃取蒙衝闘艦数十艘,実以薪草,膏油灌其中,裹以帷幕,上建牙旗。先書報曹公,欺以欲降。又豫備走舸,各繋大船後,因引次俱前。曹公軍吏士皆延頸望之,指言蓋降。蓋遂放諸船,同時発火。時風盛猛,悉延焼岸上営落。頃之,煙炎張天,人馬焼溺死者甚衆。」
——『三国志』巻五十四〈周瑜魯粛呂蒙伝〉(中華書局点校本)

この記述によれば、火攻めの提案者は周瑜の部将である黄蓋であり、その戦法は以下の要素から構成されていた:

重要なのは、ここには「諸葛亮」の名も「東風を借りる」行為も一切登場しない点である。火攻めの成功は、風向きという自然条件と、黄蓋・周瑜らの戦術的工夫によって達成されたと明確に記されている。

諸葛亮の役割に関する記載の欠如

さらに注目すべきは、『三国志』の諸葛亮伝(巻三十五〈諸葛亮伝〉)には、赤壁の戦いに関する直接的な記述がほとんど含まれていないことである。諸葛亮が果たした役割は、主に劉備と孫権の同盟成立に向けた外交活動に限られており、具体的な戦闘指揮や戦術立案には関与していないと見られる。陳寿は次のように記す:

「亮説権曰:『海内大乱,将軍起兵据有江東,劉豫州亦収衆漢南,与曹操並争天下。……』」
——『三国志』巻三十五〈諸葛亮伝〉

このように、諸葛亮は連合の仲介者として機能したが、戦場での軍事行動には直接関与していない。よって、「東風を借りる」というエピソードが史実に基づくものではないことが明白となる。

『江表伝』『資治通鑑』等の補足史料

『江表伝』における風向きの正確な記述

虞溥『江表伝』(晋代、4世紀初頭)は、孫呉側の視点から記された地方史料であり、『三国志』裴松之注にも引用されている。そこには次のように記されている:

「時東南風急,蓋乗艦去北軍二里所,同時発火。火烈風猛,船往如箭,焼尽北船,延及岸上営落。」
——『三国志』裴松之注引『江表伝』(中華書局点校本)

ここで注目すべきは、「時東南風急」と明記されている点である。これは冬季にもかかわらず、一時的に東南風が吹いたことを示しており、火攻めの成功に不可欠な気象条件であった。従来、「冬は北風が強い」という通説から「北風方急」と誤解されることがあるが、『江表伝』原文は明確に「東南風急」と記しており、これが史実上の重要な根拠となる。また、ここにも諸葛亮の名は登場せず、風は自然現象として扱われている。

『資治通鑑』の総合的記述

北宋の司馬光が編纂した編年体史書『資治通鑑』(11世紀)は、『三国志』およびその他の史料を統合して赤壁の戦いを再構成している。その記述は以下の通り:

「時東南風急,蓋放諸船,同時発火。火烈風猛,船往如箭,焼尽北船,延及岸上営落。」
——『資治通鑑』巻六十五〈漢紀五十七〉(中華書局点校本)

『資治通鑑』もまた、風向きを「東南風急」と明確に記録し、火攻めの展開を詳細に描写している。これにより、複数の信頼できる史料が「東南風」の存在を裏付けていることが確認できる。

『三国志演義』における虚構の展開

小説的脚色としての「借東風」

羅貫中『三国志演義』(元末明初、14世紀後半)は、史実に基づきつつも、物語性や人物像のドラマ化を目的として多くの創作を加えている。その第四十九回「七星壇諸葛亮祭風 三江口周瑜縦火」では、諸葛亮が南屏山に壇を築き、七日七夜の祈祷により東風を呼び寄せると描写される:

「孔明曰:『只看十一月二十甲子日,東風起,便可行事。』……是日,果有東風大起。」
——『三国志演義』第四十九回(毛宗崗評本)

この場面は完全な小説的創作であり、正史には全く根拠がない。しかし、このエピソードは諸葛亮の神格化・智謀の極致として、後世の文学・演劇・民話に大きな影響を与えた。

「借東風」伝説の文化的意義

「東風を借りる」は、単なる戦術的成功を超えて、中国の文化圏において「天時を味方につけた知恵者の勝利」という象徴的意味を持つようになった。明代以降の戯曲や絵画、さらには現代の映画・ゲームにおいても、このエピソードは繰り返し再現され、諸葛亮のイメージを形作る核心的モチーフとなっている。

気象学的・軍事的観点からの検討

冬季における東南風の可能性

現代の気象学的知見によれば、長江中流域では冬季でも寒気団の通過後に一時的に南風や東南風が吹くことがある。これは高気圧と低気圧の配置変化によるもので、特に湖沼地帯では局地的な風向変化が起こりやすい。黄蓋・周瑜らは、こうした気象パターンを経験則として熟知していた可能性が高い。

火攻めの軍事技術的側面

当時の水軍戦術において、火船による攻撃は珍しいものではなかった。『墨子』城守篇などにも、火攻めに関する詳細な記述が存在する。黄蓋の作戦は、既存の軍事知識を活かしつつ、敵の船列の密集という弱点を突いた合理的な戦術であった。風向きという自然条件は確かに不可欠であったが、それは「予測可能な自然現象」であって、「奇跡」ではなかった。

結論

赤壁の戦いにおける火攻めの成功は、「東風を借りる」という超自然的行為によるものではなく、黄蓋・周瑜らの戦術的判断と、一時的な東南風という有利な気象条件が重なった結果である。正史『三国志』をはじめとする信頼できる古籍には、諸葛亮が風を操作したという記述は一切存在せず、そのエピソードは『三国志演義』による後世の創作である。