赤壁の戦い(208年)は、中国三国時代の重要な転換点とされ、曹操率いる北方勢力と、孫権・劉備連合軍との間で行われた大規模な水戦である。この戦いにおいて決定的な役割を果たしたとされる「火攻め」について、その発案者が誰であったかは、古来より議論されてきた問題である。一般的には周瑜(しゅうゆ)が主導したとされるが、実際のところ、史料には複数の記述が存在し、一概に周瑜単独の発案とは言い切れない側面がある。
史料における火攻めの記述
1. 『三国志・周瑜伝』における記述
陳寿(ちんじゅ)が編纂した正史『三国志』の「呉書・周瑜伝」には、次のように記されている。
「乃取蒙衝鬪艦数十艘,実以薪草、膏油灌其中、裹以帷幕、上建牙旗。先書報曹公、欺以欲降。又豫備走舸、各繋大船後、因引次倶前。曹公軍吏士皆延頸望之、指言蓋降。蓋乃解縄、同時発火。時風盛猛、悉延焼岸上営落。」
(『三国志』巻五十四〈呉書九・周瑜魯粛呂蒙伝〉)
この記述によれば、黄蓋(こうがい)が偽降の計略を用いて火船を曹操軍に突入させ、風に乗じて岸辺の陣営まで焼き払ったという経緯が詳述されている。ここで注目すべきは、「乃取蒙衝鬪艦…」という行動が周瑜の指揮下で行われたこと、そして具体的な実行者は黄蓋であることである。しかし、発案者が誰であったかについては明言されていない。
2. 『三国志注』における裴松之の補足
南朝宋の裴松之(はい しょうし)が『三国志』に加えた注釈『三国志注』には、虞溥(ぐ ふ)の『江表伝』からの引用があり、以下のように述べている。
「瑜部将黄蓋曰:『今冦衆我寡、難与持久。然観操軍船艦首尾相接、可焼而走也。』瑜曰:『善。』即施行焉。」
(『三国志注』巻五十四引『江表伝』)
ここでは、黄蓋が「敵軍の船が密集しており、火を放てば退かせられる」と進言し、周瑜がこれを採用したと明確に記されている。すなわち、戦術の具体的な提案者は黄蓋であり、それを采決・実行に移したのが周瑜であるという構図が浮かび上がる。
3. 『後漢書』における記述
范曄(はん やく)が編纂した『後漢書』の「劉表伝」附記にも赤壁の戦いに関する記述が含まれるが、そこでは火攻めの詳細や発案者については触れられていない。ただし、以下の一文は注目に値する。
「孫権遣周瑜、程普等水軍数万、与備併力、与曹公戦於赤壁、大破之。焚其舟船。」
(『後漢書』巻七十四下〈劉焉袁術呂布列伝〉)
「焚其舟船」とあるように、火攻めが実際に用いられたことは確認できるが、誰が発案したかについては言及がない。
4. 『資治通鑑』における司馬光の総括
北宋の司馬光が編纂した編年体史書『資治通鑑』は、複数の史料を統合して記述を行っており、赤壁の戦いについても詳細に描写している。
「蓋乃選蒙衝鬪艦十数艘、竒兵伏其中、余船載薪草、膏油、先期約降。時に東南風急、蓋取諸船、使紹兵帥之、去北軍二里所、同時発火、火烈風猛、船往如箭、焼尽北船、延及岸上営落。」
(『資治通鑑』巻六十五、建安十三年)
この記述もまた、黄蓋が中心となって火船作戦を遂行したことを示しており、周瑜は全体の指揮官としてこれを許可・支援した立場にあると読み取れる。
火攻め発案者に関する考察
発案者としての黄蓋の役割
上述の『江表伝』の記述から明らかなように、火攻めの具体的な戦術を最初に提唱したのは黄蓋である。彼は当時の戦況(曹操軍の船艦が密集配置されていたこと)を正確に把握し、「可焼而走也」と判断した。これは単なる奇策ではなく、気象条件(東南風)や地理的状況を踏まえた合理的な軍事判断であった。
周瑜の戦略的判断と統率力
一方で、周瑜が単に黄蓋の提案を受け入れただけの存在であったとは言い切れない。『三国志・周瑜伝』には、周瑜自身が曹操軍の弱点を分析し、持久戦を避けて速戦速決を図るべきだと孫権に進言していたことが記されている。
「操雖託名漢相、其實漢賊也。…今又盛寒、馬無藁草、驅中國士衆遠渉江湖之間、不習水土、必生疾病。此数四者、用兵之患也。」
(『三国志』巻五十四)
このように、周瑜は総合的な戦略眼を持ち、火攻めを含む一連の作戦全体を統括していた。したがって、「火攻めは周瑜の主意」という通説は、必ずしも誤りではないが、正確には「黄蓋が発案し、周瑜が采決・指揮した共同戦術」と理解すべきであろう。
劉備側の関与について
『三国志・諸葛亮伝』には、諸葛亮が孫権を説得して連合を成立させた経緯が記されているが、火攻め自体への直接的関与は見られない。ただし、『江表伝』など一部の史料では、諸葛亮が東南風の到来を予測したとする逸話が後世に広まったが、これは『三国演義』などの小説的要素であり、正史には根拠がない。
結論
赤壁の戦いにおける火攻めは、黄蓋が具体的に戦術を提案し、周瑜がこれを采決・指揮して実行に移されたものである。したがって、「火攻めは周瑜の主意」という表現は、広義の意味で指揮官としての責任と功績を指すものとしては妥当であるが、狭義の「発案者」として捉えるならば、黄蓋こそがその中心人物であったと評価すべきである。