三国時代における諸葛亮(181年-234年)の政治的帰属は、単なる個人的忠誠を超えて、当時の正統性観念・儒教的価値体系・戦略的判断が複合的に作用した結果である。彼が曹操ではなく劉備に仕えたという事実は、後世の「忠臣」像形成にも深く影響を与えた。
曹操政権への批判的認識
(1)「漢相」を名乗りつつ「漢賊」と見なされた実態
曹操は建安元年(196年)より献帝を許都に迎え、「奉天子以令不臣」の体制を敷いた。しかし、その権力集中と専横は、多くの士大夫から「名を借りて実を奪う」と批判された。この認識は、同時代人の発言として明確に記録されている。
『三国志』呉書〈周瑜伝〉の裴松之注が引く『江表伝』には、周瑜が孫権に進言した際の言葉として次のように記される:
「操雖托名漢相,其實漢賊也。」
(曹操は漢の丞相を名目とするが、実は漢の賊である。)
——『三国志』巻五十四、裴松之注引『江表伝』
この評価は、単なる呉側のプロパガンダではなく、蜀漢側でも共有されていた。諸葛亮もまた、同様の認識を持っていたと考えられる。
(2)峻刻な法治と猜疑心による統治
曹操の統治は法家的傾向が強く、反逆や不満の兆候に対して極めて厳格であった。陳寿『三国志』本文は曹操を概ね肯定的に描くが、裴松之が補足した逸話からは別の側面が窺える。
裴松之注が引く『曹瞞伝』(魏晋期の野史、已佚)には次のようにある:
「太祖持法峻刻,諸將有計畫勝出己者,隨以法誅之。」
(太祖(曹操)は法を峻刻に執り行い、諸将の中に計略が己を超える者がいれば、直ちに法をもって誅殺した。)
——『三国志』魏書〈武帝紀〉、裴松之注引『曹瞞伝』
このような統治姿勢は、儒家の「寛仁」「容衆」という理念とは明らかに相容れず、諸葛亮のような徳治主義者にとっては受け入れ難いものであった。
劉備への思想的・道義的共鳴
(1)漢室宗親としての正統性
劉備は中山靖王劉勝の末裔を称し、血統的に漢王朝とつながっていた。これは形式的ではあっても、後漢末期において極めて重要な政治資本であった。『三国志』蜀書〈先主伝〉はその出自を次のように記す:
「先主姓劉,諱備,字玄德,涿郡涿縣人,漢景帝子中山靖王勝之後也。」
(先主は姓は劉、諱は備、字は玄徳、涿郡涿県の人、漢景帝の子・中山靖王劉勝の末裔である。)
——『三国志』巻三十二〈先主伝〉
この正統性は、諸葛亮が「漢室再興」を大義名分とする上で不可欠な前提であった。
(2)仁徳と人心掌握
劉備の人望については、陳寿自身が高く評価している。特に建安十三年(208年)の荊州撤退時に民衆を置き去りにしなかった逸話は著名である:
「夫濟大事必以人为本,今人歸吾,吾何忍棄去!」
(大業を成し遂げるには必ず人を本とせねばならぬ。今、人々が我に帰するというのに、どうして忍びて捨て去れようか!)
……
「其得人心如此。」
(その人心を得た様子はこのようであった。)
——『三国志』巻三十二〈先主伝〉
また、劉備の若年の学問についても、裴松之注が『典略』を引いて次のように補足する:
「年十五,母使學五經。」
(十五歳のとき、母が五経を学ばせた。)
——『三国志』巻三十二、裴松之注引『典略』
これらの記述は、劉備が単なる武人ではなく、儒教的教養と民本思想を持つ指導者であったことを示唆しており、諸葛亮の理想に近い人物像を形作っている。
隆中対:戦略と大義の融合
建安十二年(207年)、諸葛亮は劉備の訪問を受け、天下三分の計を述べた。この「隆中対」は、単なる軍事戦略ではなく、正統性・地理・人心を総合的に考慮した政治構想である。『三国志』蜀書〈諸葛亮伝〉にはその冒頭が次のように記される:
「自董卓以來,豪傑並起,跨州連郡者不可勝數。曹操比於袁紹,則名微而眾寡,然操遂能克紹,以弱為強者,非惟天時,抑亦人謀也。」
(董卓以来、豪傑が一斉に立ち上がり、州や郡をまたいで勢力を張る者が数えきれないほどである。曹操は袁紹に比べれば名声も小さく兵力も少なかったが、曹操はついに袁紹を破った。弱きものが強きものとなるのは、ただ天運によるだけでなく、人の謀略によるものでもある。)
——『三国志』巻三十五〈諸葛亮伝〉
ここで諸葛亮は曹操の能力を冷静に認める一方で、「天命」や「正統」には言及せず、むしろ「人謀」=人的努力と戦略の重要性を強調している。彼が劉備を選んだのは、曹操の「力」ではなく、劉備の「義」に未来を見出したからである。
忠義の表明:『出師表』に見る信念
諸葛亮の政治的信念は、後年に劉禅に上奏した『出師表』に凝縮されている。この文書は『三国志』本文には全文収録されていないが、南朝梁の『文選』および北宋司馬光『資治通鑑』に全文が載り、その真贋は古来疑われていない。
『資治通鑑』巻七十一(建興五年、227年)所収の『出師表』には次のようにある:
「先帝創業未半而中道崩殂,今天下三分,益州疲弊,此誠危急存亡之秋也。然侍衛之臣不懈於内,忠志之士忘身於外者,蓋追先帝之殊遇,欲報之於陛下也。」
(先帝(劉備)は事業の半ばで崩御され、今や天下は三分され、益州は疲弊しており、まさに国家存亡の危機である。しかしながら、宮中の臣下が内にて怠らず、忠義の士が外にて命を忘れざる所以は、先帝の特別な恩遇を追慕し、陛下(劉禅)に報いんとするためである。)
さらに、その末尾にはこう結ばれる:
「鞠躬盡瘁,死而後已。」
(身を屈して精励し、死して後已む。)
この精神は、単なる主君への忠誠ではなく、「漢室再興」という歴史的大義への献身を意味する。曹操のもとでは、このような大義を掲げることは不可能であった。
結論:理念と現実の接点
諸葛亮が劉備を選んだ理由は、以下の四点に要約される。
- 正統性の尊重:劉備が漢室宗親であることにより、「漢」の継承者としての大義名分が成立した。
- 儒教的価値観の一致:劉備の「仁徳」「民本」の政治は、諸葛亮の儒家的理想と合致していた。
- 曹操政権への倫理的拒否:曹操の専制・峻法・猜疑は、徳治主義と相容れなかった。
- 戦略的展望と道義的信念の統合:隆中対は、単なる権力獲得策ではなく、「漢室再興」という倫理的目標を内包していた。
これらの要素が重なり合い、諸葛亮をして「三顧の礼」に応じさせ、生涯を賭して蜀漢の事業に尽くさせたのである。