建興十二年(西暦234年)、五丈原の軍中にて蜀漢丞相諸葛亮は病没した。その死は単なる個人の終焉ではなく、国家存立の岐路に立つ蜀漢にとって極めて重大な転機であった。諸葛亮は自らの死期を悟ると、内紛の防止、軍事指揮の継承、政権の安定、戦略的遺産の維持という四つの次元において、周到かつ多層的な「後手」を仕掛けていた。
一、軍事指揮権の円滑な移譲
1. 楊儀への退軍全権委任
諸葛亮は病床において、長史・楊儀(ようぎ)に撤退作戦の全権を付与し、魏延(ぎえん)との潜在的対立を予防した。『三国志』巻三十五〈蜀書・諸葛亮伝〉には次のように記されている:
「亮病困,密与长史杨仪、司马费祎、护军姜维等作身殁之后退军节度,令延断后,姜维次之;若延或不从命,军便自发。」
(諸葛亮が重篤となり、密かに長史の楊儀、司馬の費禕、護軍の姜維らと、自身の死後の退軍計画を作成した。魏延に殿(しんがり)を務めさせ、姜維がそれに続くこととした。もし魏延が命令に従わぬ場合は、軍は直ちに出発せよと命じた。)
——『三国志』巻三十五、中華書局点校本、1959年、p.927
この指示は、単なる人事決定ではなく、将帥間の緊張関係を制度的に制御するための精緻な設計である。
2. 魏延排除の制度的伏線
魏延は勇猛ではあるが、傲慢で独断専行の傾向があり、諸葛亮はその性格を深く懸念していた。実際、諸葛亮の死後、魏延は命令を拒否し、自ら軍を率いることを主張した。『三国志』巻四十〈魏延伝〉にはその経緯が詳述される:
「亮適卒,秘不發喪。儀令禕往揣延意指。延曰:『丞相雖亡,吾自見在。府親官屬便可將喪還葬,吾自當率諸軍擊賊,云何以一人死廢天下之事邪?且魏延何人,當為楊儀所部勒,作斷後將乎!』」
——『三国志』巻四十、p.997
この言動は諸葛亮の遺命に明確に反しており、結果として楊儀らによって討たれることとなる。諸葛亮は、このような事態を予測し、「若延或不從命、軍便自發」という緊急時の自動発動メカニズムを設けていたのである。
二、政権運営の安定化策
1. 蔣琬への後事委任
諸葛亮は生前より蔣琬(しょうえん)を後継者として育成し、劉禅(後主)に宛てて密かに上奏していた。『三国志』巻四十四〈蔣琬伝〉には以下の記載がある:
「亮每言:『公琰託志忠雅,當與吾共贊王業者也。』又密表後主曰:『臣若不幸,後事宜以付琬。』」
——『三国志』巻四十四、p.1068
この「密表」は、後継者争いを未然に防ぐための極めて政治的な措置であり、蜀漢の統治機構が混乱なく移行する基盤を築いた。
2. 費禕・姜維への段階的継承構想
蔣琬の後に費禕(ひい)が政権を引き継ぎ、さらに姜維が軍事面を担うという「三段階継承モデル」が形成された。司馬光の『資治通鑑』巻七十二(魏紀四、青龍二年条)はこの過程を次のように記す:
「以蔣琬為尚書令,俄而加行都護,假節,領益州刺史……後主乃以琬為大將軍、錄尚書事。」
——『資治通鑑』巻七十二、中華書局、1956年、p.2315–2316
この記述は、諸葛亮の遺志が制度的に実現されたことを示しており、彼の政治設計が死後も機能していたことを証明する。
三、戦略的遺産の継承
1. 姜維への北伐戦略の託付
諸葛亮は姜維を「涼州上士」と評し、特別に重用した。『三国志』巻四十四〈姜維伝〉には次のようにある:
「亮辟維為倉曹掾,加奉義將軍,封當陽亭侯。……亮與留府長史參軍事張裔、蔣琬書曰:『姜伯約忠勤時事,思慮精密,考其所有,永南、季常諸人不如也。其人,涼州上士也。』」
——『三国志』巻四十四、p.1071
この評価は、単なる人材登用にとどまらず、魏の西部戦線(涼州方面)への長期的圧力戦略を姜維に継承させる意図を含んでいた。
2. 渭水沿いの屯田政策
五丈原駐屯中、諸葛亮は兵糧不足を克服するため、渭水沿岸に屯田を実施した。東晋の習鑿歯が著した『漢晋春秋』(裴松之注により『三国志』に引用)には次のように記される:
「亮每患粮不继,使己志不申,是以分兵屯田,为久驻之基。耕者杂于渭滨居民之间,而百姓安堵,军无私焉。」
——裴松之注引『漢晋春秋』、『三国志』巻三十五、p.928
この政策は、単なる短期的兵糧調達ではなく、「持久戦の拠点化」を狙った戦略的布石であり、諸葛亮の先見性を示すものである。
四、道徳的遺産と政治的正統性の担保
1. 清廉潔白の公示
諸葛亮は死の直前、自らの財産状況を明らかにし、後世の批判を防いだ。『三国志』巻三十五〈諸葛亮伝〉にはこう記される:
「初,亮自表後主曰:『成都有桑八百株,薄田十五頃,子弟衣食,自有餘饒。……若臣死之日,不使內有餘帛,外有贏財,以負陛下。』及卒,如其所言。」
——『三国志』巻三十五、p.931
この自己申告とその履行は、当時の高官としては稀有であり、諸葛亮の死後もその政治的信用が揺るがなかった所以である。
2. 「鞠躬尽瘁」の精神的遺言(補足的記述)
なお、「鞠躬尽瘁、死而後已」という有名な一節は、『後出師表』に見られる。ただし、この表文は『三国志』本文には収録されておらず、裴松之注が張儼『黙記』および習鑿歯『漢晋春秋』を引いて初めて伝えている。学界ではその真偽に議論があるが、唐宋以降、これは諸葛亮精神の象徴として広く受容されてきた。本稿では、これを思想的遺産としての象徴的引用と位置づけ、史的確実性を損なわないよう留意している。
結語
諸葛亮の臨終前の布石は、軍事・政治・戦略・倫理の四つの柱から成り立ち、それぞれが相互に補完しあう高度な制度設計であった。