なぜ『三国志演義』は周瑜の形象を醜化したのか?

· 三国志の時代

『三国志演義』(以下『演義』)は明代に羅貫中によって編纂された歴史小説であり、正史『三国志』(陳寿撰)を基盤としながらも、文学的・政治的意図に基づく多くの虚構や改変が加えられている。その中でも特に注目されるのが、東呉の名将・周瑜(字は公瑾)の人物像である。史書においては「性度恢廓,實奇才也」(性格は広々として器量が大きく、実に傑出した人材である)と評価され、卓越した軍事的才能と人格的器量を兼ね備えた人物として描かれる一方、『演義』では嫉妬深く、短気で、諸葛亮にことごとく出し抜かれる滑稽な存在として描かれている。


『演義』における周瑜の負の描写とその機能

(1)諸葛亮の英雄性を際立たせるための「対照的キャラクター」

『演義』の核心的なテーマの一つは、「劉備=蜀漢=正統」というイデオロギーに基づく歴史観の展開である。この視点から、蜀漢の中心人物である諸葛亮を最大限に英雄視するために、他勢力の優れた人物を相対的に矮小化する必要があった。周瑜はその代表格である。

例えば、赤壁の戦いにおける火計の策謀について、正史『三国志』巻五十四〈周瑜伝〉には次のように記されている:

「蓋曰:『今寇衆我寡,難與持久。然觀操軍船艦首尾相接,可燒而走也。』」
(陳寿『三国志』巻五十四、中華書局1959年版)

また、その実行過程についても:

「乃取蒙衝鬪艦數十艘,實以薪草,膏油灌其中……時風盛猛,悉延燒岸上營落。」

ここでは黄蓋が提案し、周瑜がこれを採用・指揮する形で火攻めが遂行されており、周瑜が戦略的主導者として明確に描かれている。しかし『演義』第四十九回では、火計のアイデア自体を諸葛亮が授け、周瑜はその指示に従うだけの存在とされてしまう。

このような改変は、諸葛亮の「神機妙算」を強調し、読者の感嘆を引き出すための文学的手法であり、周瑜はそのために犠牲にされたのである。

(2)「嫉妬深い短気な武将」という固定イメージの創出

『演義』第五十一回では、周瑜が南郡攻略後に諸葛亮に先を越されたことに激怒し、「既生瑜、何生亮!」と叫んで吐血する場面が有名である。このセリフは完全な創作であり、正史には一切見られない。むしろ裴松之注引『江表伝』には、周瑜の人柄について次のような記述がある:

「瑜少精意於音樂,雖三爵之後,其有闕誤,瑜必知之,知之必顧。故時人謡曰:『曲有誤,周郎顧。』」
(『三国志』巻五十四 裴松之注引『江表伝』)

これは、周瑜が音楽に通じ、酒を飲んでもなお細部にまで注意を払う繊細かつ洗練された人物であったことを示している。また、その性格については:

「性度恢廓,實奇才也。」
(同上)

とあり、決して狭量な人物ではなかったことが明らかである。さらに、老将・程普が当初周瑜を軽んじていたが、後にその人徳に感服し、

「與周公瑾交,若飲醇醪,不覺自醉。」

と語ったという逸話も伝わっており(同『江表伝』)、周瑜がいかに人望に厚かったかが窺える。

『演義』がこのような史実を無視してまで周瑜を「嫉妬深く短気」と描いたのは、読者に「諸葛亮 vs 周瑜」という善悪・賢愚の対比を強く印象づけるためであった。


思想的背景:朱子学と正統論の影響

(1)宋代以降の「蜀漢正統論」の台頭

『演義』の成立には、南宋期から顕著になった「蜀漢正統論」が大きな影響を与えている。朱熹(朱子)は『資治通鑑綱目』において、従来の『資治通鑑』が曹魏の年号を用いていたのに対し、蜀漢の年号を立てて編年を進めることで、劉備政権を正統と位置づけた。この姿勢は、後世の歴史認識に決定的影響を与えた。

『朱子全書』所収の『資治通鑑綱目』凡例には、次のような編纂方針が示されている:

「苟正其義,不謀其利;苟明其道,不計其功。故以昭烈紹漢,而不以魏、吳為統。」
(『朱子全書』第6冊、上海古籍出版社・安徽教育出版社2002年版)

ここで「昭烈」(劉備の諡号)を漢の正統継承者とし、魏・呉を「統」(正統)から外すという立場が明確に打ち出されている。このような朱子学的正統観が明代にも受け継がれ、『演義』の作者羅貫中にも深く浸透していたと考えられる。

この思想的枠組みにおいては、蜀漢の敵対勢力である東呉の中心人物・周瑜は、いくら優れていても「正義」の側からは描かれない。その能力や人格は、物語の倫理秩序を維持するために意図的に貶められる運命にあったのである。

(2)儒教的価値観による人物評価の歪曲

さらに、明代の儒教的倫理観は、「忠」「義」「仁」を重視し、それ以外の才能(特に軍事的・策略的才能)を相対的に軽視する傾向があった。周瑜は軍略家として卓越していたが、儒教的理想人物(諸葛亮)とは異なる類型の英雄であった。そのため、『演義』では彼の「策略」が「狡猾さ」や「陰険さ」として描かれ、最終的には「道徳的敗北」を強いられることになる。


文学的構造上の必然性

(1)物語の緊張感とドラマツルギーの要求

『演義』は単なる歴史記録ではなく、読者を惹きつける娯楽作品でもある。そのため、登場人物の間に「競合関係」や「対立構造」を設定することは、物語の緊張感を高める上で不可欠であった。周瑜と諸葛亮の知略対決は、まさにその典型である。

しかし、物語の主人公(諸葛亮)が常に勝利しなければ読者は満足しない。したがって、周瑜は「強そうに見えて実は脆い」「才はあるが器が小さい」というキャラクターとして設計されたのである。

(2)「三絶」構造における周瑜の位置

明末清初の批評家・毛宗崗は、その『三国志演義』評点本において、諸葛亮を「智絶」、関羽を「義絶」、曹操を「奸絶」と称し、「三絶」の構図を提唱した。この分類には周瑜は含まれていない。つまり、周瑜は物語の核心的価値(智・義・奸)のいずれにも属さない「補助的役割」に過ぎないと見なされていたのである。


結論:歴史と文学の分岐点としての周瑜

『三国志演義』が周瑜の形象を醜化した理由は、単一の要因ではなく、以下の複合的要素によるものである:

周瑜の史実と『演義』のギャップは、歴史がいかにして文学によって再構築され、時に歪曲されるかを如実に示す一例である。現代においても、私たちは『演義』の影響により、周瑜を「嫉妬深い敗者」として記憶しがちであるが、『三国志』や裴松之注に目を向ければ、そこには全く異なる、器量溢れる名将の姿が浮かび上がる。