建安二十四年(219年)、関羽が呉の奇襲により荊州を喪失し、間もなく敗死した事件は、三国時代における決定的な分岐点である。この出来事は蜀漢の戦略基盤を根本から揺るがし、諸葛亮が劉備に示した「隆中対」に依拠する二正面北伐構想を事実上破綻させた。
荊州の戦略的重要性と蜀漢の基本戦略
隆中対における荊州の位置づけ
諸葛亮が劉備に対し示した戦略構想「隆中対」において、荊州は蜀漢建国の要諦とされた。『三国志』蜀書諸葛亮伝には次のように記される:
「荆州北据漢、沔,利盡南海,東連吳會,西通巴、蜀,此用武之國,而其主不能守,此殆天所以資將軍……」
(陳寿『三国志』巻三十五〈蜀書・諸葛亮伝〉、中華書局点校本)
この記述は、荊州が漢水・沔水を北に控え、南海(南中国海沿岸地域)までの経済的利益を掌握し、東は呉・会稽、西は巴・蜀と交通する「用武の国」、すなわち軍事行動に最適な地勢を持つことを明言している。そして、当時の荊州牧劉表がその地の価値を活かしえないため、「天が将軍(劉備)に与えた賜物である」と断じている。この認識こそが、蜀漢の国家戦略の根幹であった。
荊州喪失後の戦略的劣勢
関羽の敗死により荊州を失った蜀漢は、この二正面作戦を放棄せざるを得なくなった。司馬光は『資治通鑑』において、関羽の性格と内部不和が呉の策謀に乗じられた経緯を次のように記す:
「初,関羽勇而有義,然剛而自矜……南郡太守糜芳在江陵,将軍士仁屯公安,素皆嫌羽輕己。……呂蒙密白孫権曰:『羽討樊而多留備兵,必恐蒙圖其後也。』……權乃露檄召蒙還,以陸遜代之。遜未有遠名,令與書稱讚其功,深自謙抑……羽意大安,無復所嫌,稍撤兵以赴樊。」
(司馬光『資治通鑑』巻六十八、建安二十四年条)
このように、関羽の「剛而自矜」(剛直だが自己を誇る)という性格的欠点と、部将糜芳・士仁との不和が、呂蒙・陸遜の巧妙な心理戦に乗じられ、結果として荊州防衛の手薄を招いたのである。蜀漢はこれにより、益州一極体制に追い込まれ、戦略的柔軟性を著しく損なうこととなった。
関羽が荊州を維持した場合の可能性
蜀漢の戦略的優位の継続
関羽が荊州を保持していれば、蜀漢は依然として「益州+荊州」の二正面体制を維持できた。特に、襄陽・樊城方面からの北伐は、中原直下への最短ルートであり、曹魏にとって極めて脅威となる攻撃軸であった。実際、関羽が樊城を包囲した際、曹操は遷都をも考慮するほど動揺した(『三国志』魏書武帝紀)。
荊州の地政学的重要性は、『後漢書』にも明確に記されている:
「荊州之人、戸数十万、財穀豊殖、南接五嶺、北据江漢。」
(范曄『後漢書』巻七十四下〈劉表伝〉、中華書局点校本)
この記述は、荊州が単なる軍事拠点ではなく、数十万戸の人口と豊かな物資を擁する経済基盤でもあったことを示しており、蜀漢がこれを維持していれば、長期的な戦争遂行能力を大幅に向上させられたであろう。
呉蜀同盟の安定化と夷陵の戦いの回避
関羽の荊州喪失は、呉蜀同盟を破綻させ、翌年(222年)の夷陵の戦いへと直結した。この戦いは蜀漢にとって壊滅的な打撃を与えた。『三国志』呉書陸遜伝にはその惨状が記される:
「備從巫峽、建平連營至夷陵界、立数十屯……乃勅各持一把茅、以火攻抜之。一爾勢成、通率諸軍同時倶攻、斬張南・馮習及胡王沙摩柯等首、破其四十餘營。」
(陳寿『三国志』巻五十八〈呉書・陸遜伝〉)
また、『三国志』先主伝には戦後の状況がこう記される:
「舟船器械、水歩軍資、一時略尽。尸骸漂流、塞江而下。」
(陳寿『三国志』巻三十二〈蜀書・先主伝〉)
このような大規模な兵力・装備の喪失は、蜀漢の国力を長期間にわたり萎縮させた。もし関羽が呉との外交的配慮を怠らず、荊州を守りつつ同盟を維持していたならば、この無益な内耗は回避され、蜀漢の資源は魏打倒に集中できたはずである。
曹魏への影響と三国鼎立の長期化
魏の防衛負担の増大
荊州が蜀漢の手中にあれば、曹魏は西部(雍涼方面)と南部(荊豫方面)の両面で防御を強化せざるを得ず、軍事資源の分散を余儀なくされる。司馬光は『資治通鑑』において、魏の戦略的苦境を次のように描写する:
「魏以中國之地,西禦蜀漢,東拒孫吳,兵分力屈,常有外虞。」
(司馬光『資治通鑑』巻七十一、黄初三年条)
この「兵分力屈」(兵力を分けて力が尽きる)という状態が、荊州を起点とする蜀の攻勢によってさらに悪化すれば、魏の統治基盤はより脆弱になった可能性が高い。
持続可能な北伐と国家運営
諸葛亮は北伐に際し、単なる軍事行動にとどまらず、渭水流域での屯田など持続可能な戦争遂行を志向した。『資治通鑑』はその様子をこう記す:
「亮每患糧不繼、使己志不申、是以分兵屯田、為久駐之基。耕者雜於渭濱居民之間、而百姓安堵、軍無私焉。」
(司馬光『資治通鑑』巻七十二、建興九年条)
この「百姓安堵、軍無私焉」(民衆は安住し、軍は私することなし)という記述は、諸葛亮政権の統治能力の高さを示すものである。もし荊州という第二の経済・兵站拠点を有していれば、この屯田政策はさらに効果を発揮し、北伐の頻度・規模ともに拡大できたであろう。
結論:歴史の岐路と荊州の重み
関羽の荊州喪失は、一将の敗北にとどまらず、蜀漢全体の戦略的命脈を断つ歴史的転換点であった。『三国志』『後漢書』『資治通鑑』等の正史が一貫して示すところによれば、荊州は蜀漢の存立にとって不可欠な軍事・経済拠点であり、その喪失は「隆中対」の破綻、夷陵の戦いの勃発、そして最終的な蜀漢滅亡へとつながる連鎖反応の始まりであった。
もし関羽が呉との関係を慎重に管理し、内部統制を強化し、荊州を維持し得たならば、蜀漢は魏に対して均衡ある攻勢を長期にわたって展開できたであろう。その結果、三国鼎立の均衡が数十年にわたり継続し、中国統一の時期が大きく遅れた可能性は十分に考えられる。