曹操が楊修を殺したのは「鶏肋(けいろく)」事件のためですか?

· 三国志の時代

後漢末期から三国時代にかけての政治・軍事的混乱の中で、曹操(155年-220年)は魏の実質的創始者として知られる。その一方で、彼の統治下には多くの才人・文士が集まり、その中でも楊修(ようしゅう、175年-219年)は卓越した知性と機転で知られていた。しかし、建安二十四年(219年)、曹操は楊修を処刑する。この処刑の直接的契機としてしばしば挙げられるのが、「鶏肋(けいろく)」という言葉を巡る出来事である。


「鶏肋事件」の経緯と記録

(1)『典略』(裴松之注引)における記述

楊修の死に関する最も有名な逸話は、「鶏肋」を巡るものであり、これは陳寿『三国志』の注釈家・裴松之(はい しょうし)が引用した魚豢(ぎょかん)著『典略(てんりゃく)』に詳しい。『三国志』巻十九〈魏書・陳思王植伝〉裴松之注引『典略』には次のように記されている:

「時、操自出漢中,修在軍中。操軍既不得進,又不得還,欲作令曰『雞肋』。外曹莫能曉。修即敕人皆束裝。人問其故,修曰:『夫雞肋,棄之可惜,食之無所得,以比漢中,知王欲還也。』操聞之,大怒,遂收修,殺之。」
——『三国志』巻十九 裴松之注引『典略』(中華書局点校本、1959年、564頁)

この記述によれば、曹操が漢中征伐中に進退窮まり、「鶏肋」という暗号的な口令を発したところ、楊修がその意図を読み取り、撤退の準備を命じた。これに対して曹操は激怒し、楊修を逮捕・処刑したという。ただし、『典略』はすでに散逸しており、その内容は裴松之注によってのみ伝えられている。

(2)『資治通鑑』における簡潔な記載

司馬光の編年体史書『資治通鑑』は、この事件をより政治的な視点から記録している。同書巻六十八(建安二十四年)には、楊修処刑の理由について次のように記されている:

「操以修前後漏泄言教,交關諸侯,乃收殺之。」
——『資治通鑑』巻六十八(中華書局点校本、1956年、2178頁)

ここで注目すべきは、「鶏肋」には一切言及せず、「以前から命令や内意を漏洩し、諸侯(=曹操の諸子)と私的に結託していた」ことが処刑の正式な理由とされている点である。「交關諸侯」は漢晋時代の法律用語で、臣下が皇族・宗室と不正に通じることを意味し、重罪とされた。


楊修処刑の真の原因:政治的背景と権力闘争

(1)曹丕と曹植の後継者争いへの介入

楊修は曹操の第三子・曹植(192年-232年)に近しく、その文学的才能を高く評価されていた。一方、長男・曹丕(187年-226年)は嫡長子として後継者に擬せられていた。この二人の間で熾烈な太子争いが展開され、楊修は曹植派として深く関与した。

この点について、裴松之注は『世語(せいご)』を引いて次のように記す:

「是時,太祖立太子,植以才愛,幾得立。修常白其父:『君奉王命,不可不勤。』又教植答教,太祖怪其捷,聞之,乃收殺修。」
——『三国志』巻十九 裴松之注引『世語』(中華書局点校本、564頁)

ここでは、楊修が曹植に「教令(曹操の指令)への返答」を事前に指導していたことが明記されており、それが曹操の「怪其捷(その迅速さを怪しむ)」という猜疑心を招いたとされる。この行為は、まさに『資治通鑑』が指摘する「漏泄言教」に該当する。

(2)曹操の晩年の粛清政策との整合性

曹操は晩年、自らの権力を脅かす可能性のある人物を次々と排除してきた。荀彧(じゅんいく)は魏公就任に反対して失脚し、孔融(こうゆう)は傲慢な言動で処刑され、崔琰(さいえん)も政敵の讒訴により自害に追い込まれた。楊修の場合も、単なる「機知の披露」ではなく、後継者問題という最高レベルの政治領域への介入が致命的だった。

『三国志』本文には、楊修処刑の公式理由として次のように記されている:

「太祖既慮終始之變,以楊修頗有才策,而又袁氏之甥也,於是以罪誅修。」
——『三国志』巻十九〈陳思王植伝〉(中華書局点校本、563頁)

「終始之變」とは、政権交代期における内乱や簒奪の危険を指す。「袁氏之甥」とは、楊修がかつて曹操の宿敵・袁術の甥にあたることを示し、血縁的リスクも考慮された。このように、楊修の処刑は「鶏肋」以前から計画されていた可能性すらある。


「鶏肋事件」の象徴的意義と歴史的評価

(1)『世説新語』における楊修の才気の描写

南朝宋の劉義慶(りゅう ぎけい)が編纂した『世説新語』〈捷悟(しょうご)篇〉には、楊修の鋭敏さを称える逸話が収録されており、その代表例が曹娥碑の謎解きである:

「魏武嘗過曹娥碑下,楊修從。碑背上見題作『黃絹幼婦,外孫虀臼』八字。魏武謂修曰:『解不?』答曰:『解。』……乃歎曰:『我才不及卿,乃覺三十里。』」
——『世説新語』〈捷悟第七〉(余嘉錫『世説新語箋疎』、中華書局、2015年、368頁)

この逸話は、楊修の知性が曹操を凌駕していたことを示すものであり、「鶏肋」事件もまた、その過剰な機知が逆に災いを招いた典型例として後世に語り継がれた。ただし、『世説新語』は小説的色彩の強い逸話集であり、史実性には慎重な検討を要する。

(2)歴史的評価:表面的事件と深層的動機

以上のように、一次史料を精査すると、「鶏肋事件」は確かに存在し、楊修処刑の直接的引き金となったが、根本的原因は別にあることが明らかになる。『資治通鑑』と『三国志』裴注が一致して指摘するのは、「漏泄言教」「交關諸侯」という政治的罪状であり、これは後継者争いへの干渉を意味する。

したがって、後世の通俗的理解——「曹操が楊修の頭の良さに嫉妬して殺した」——は一面的であり、実際には権力維持のための冷酷な政治判断の結果であったと見るべきである。


結論:「鶏肋」は口実にすぎず、真因は権力闘争にあり

曹操が楊修を処刑した理由について、以下の三点が史料から確実に導き出される:

  1. 「鶏肋事件」は事実であり、処刑の直近の契機となった(『典略』)。
  2. しかし、公式な処刑理由は「漏泄言教、交關諸侯」であり、これは曹植支持による後継者干渉を指す(『資治通鑑』『世語』)。
  3. 曹操は晩年、いかなる潜在的脅威も容認せず、楊修の才気・血縁・政治的行動すべてがリスクと判断された(『三国志』本文)。

ゆえに、「鶏肋」は単なる口実または最後の引き金に過ぎず、真の原因は建安末期における激しい後継者闘争と、それに対する曹操の徹底した粛清政策に求められるべきである。