三国時代の「九品中正制」は、どのように官吏登用(選官)に影響を与えたのか?

· 三国志の時代

三国時代、特に魏の文帝(曹丕)が黄初元年(220年)に即位して間もなく導入された「九品中正制」(きゅうひんちゅうせいせい)は、中国における官吏登用制度の一大転換をもたらした。この制度は、漢代の「察挙制」や「徴辟制」に代わるものとして設けられ、中央集権的な人事統制を志向しつつも、地方豪族との政治的妥協の産物でもあった。


一、九品中正制の制度的枠組みと創設経緯

九品中正制は、各州・郡に「中正」と呼ばれる専任官を置き、その者が管轄地域内の士人(知識人階級)を「徳行」「才能」「家世」などを基準として九段階(上上・上中・上下・中上・中中・中下・下上・下中・下下)に評価し、その品第に基づいて中央政府が官職を授ける仕組みである。この制度の最大の特徴は、人物評価を専門機関(中正)に委ね、選抜の標準化を図った点にある。

この制度の提唱者は、魏の重臣・陳群(ちん ぐん)である。『三国志』魏書巻二十二〈陳群伝〉には次のように記されている:

「制九品官人之法,群所建也。」
(『三国志』魏書巻二十二)

この一句は、「九品官人之法は陳群が建てたものである」と明言しており、制度が単なる慣習ではなく、意図的な国家政策として創設されたことを示している。陳群は尚書令として文帝に進言し、これにより貴族・豪族の推薦に依存する旧来の選挙方式から、より体系的な評価制度への移行が図られたのである。


二、選官基準の変容:徳才から門地へ

制度発足当初は、「唯才是挙」(才能ある者を挙げよ)という理念のもと、個人の資質に基づく公正な選抜が目指されていた。しかし、実際の運用においては、中正官自体が地方の有力豪族出身者であり、その評価はしばしば私情や姻戚関係に左右された。その結果、次第に「門閥」(家柄・家格)が評価の中心となり、選官は貴族化・世襲化していった。

この傾向を鋭く批判したのが、西晋の劉毅(りゅう き)である。『晋書』巻四十五〈劉毅伝〉には、彼の上奏文の一節として次のような有名な文がある:

「上品無寒門,下品無勢族。」
(『晋書』巻四十五)

これは、「上位の品第には貧しい家系(寒門)の者がおらず、下位の品第には権力を持つ名門(勢族)が存在しない」という意味であり、九品中正制がすでに形式化・階級固定化していることを如実に示している。この一句は、後世の歴史家によって繰り返し引用され、九品中正制の根本的欠陥を象徴する言葉となった。


三、中正官の権限とその弊害

中正官は、理論上は中央政府の監督下にあるものの、その任命や評価活動は地方社会の実情に深く依存していた。そのため、中央の人事統制は限定的となり、むしろ地方豪族が選挙権を事実上掌握する状況が生じた。

唐代の杜佑(と ゆう)が編纂した『通典』巻十四〈選挙典二〉には、この問題を次のように記している:

「州郡中正,皆取著姓士族為之,其所品舉,率皆附託,罕有公平。」
(杜佑『通典』巻十四)

これは、「州・郡の中正はすべて著名な姓(名家)の士族から選ばれ、その者が推挙する人物もまた、多くは私的な縁故によるもので、公正な例は稀である」という意味である。この記述は、中正制度が当初の理念とは裏腹に、むしろ既得権益層の再生産装置と化していたことを明らかにしている。


四、選官制度史における位置づけと後世への影響

九品中正制は、漢代の察挙制から隋唐の科挙制へと至る過渡期の制度として極めて重要である。それは、人物評価の全国的標準化を初めて試みた点において画期的であった。しかしながら、その運用過程で生じた門閥優遇や評価の恣意性は、制度そのものの信頼性を損ない、最終的には隋代において科挙制度に取って代わられることとなる。

北周の蘇綽(そ たく)は、当時の選挙の歪みを痛烈に批判している。『周書』巻二十三〈蘇綽伝〉には次のような記述がある:

「但取門資,多不擇賢良。」
(『周書』巻二十三)

これは、「ただ家柄(門資)のみを重んじ、賢良な人物を選ぶことは稀である」という意味であり、九品中正制末期における選官の形式主義と閉塞感を端的に表している。このような批判が積み重なり、隋の文帝は開皇十八年(598年)に「志行修謹」「清平幹済」という科目を設けて、能力本位の選抜を再導入し、これが後の科挙制度の萌芽となった。


五、結論:理想と現実の乖離と歴史的意義

九品中正制は、その創設当初、「才徳ある者を公正に選抜する」という理念を掲げていた。『三国志』『晋書』『通典』『周書』などの史料が示すように、制度設計自体は合理的かつ体系的であった。しかし、実際の運用においては、地方豪族の利害や人間関係が介入し、次第に「門地本位」の選官へと変質していった。その結果、社会的流動性は阻害され、官僚機構の閉塞感が強まった。