諸葛亮(181年-234年)は、後漢末期から三国時代にかけて蜀漢の丞相として活躍した政治家・軍略家であり、その知略と忠義は後世に称賛されてきた。彼は劉備に仕え、蜀漢の建国に尽力し、「天下を安んじる」ことを志した。しかし、五度にわたる北伐は最終的に成功せず、蜀漢は魏に滅ぼされ、三国の統一は晋によって成し遂げられることになった。
一、地理的劣勢と資源の制約
(1)蜀地の閉鎖性と補給線の脆弱性
蜀漢の本拠地である益州(現在の四川省一帯)は、秦嶺山脈や大巴山脈など天然の要害に囲まれており、防御には適していたが、外部への攻撃には極めて不利であった。諸葛亮の北伐において最大の障害となったのは、この地形ゆえの補給線の長さと脆弱性であった。
『三国志』巻三十五〈蜀書・諸葛亮伝〉裴松之注が引く『漢晋春秋』には、次のように記されている:
「亮毎患糧不継、使己志不申。」
(『三国志』蜀書 諸葛亮伝 裴松之注引『漢晋春秋』)
これは、諸葛亮が常に兵糧の継続供給に悩まされ、自らの戦略的意図を十分に展開できなかった実態を示している。特に祁山方面への遠征では、漢中から魏境までの距離が長く、輸送にかかる人馬の消耗が甚大であった。
(2)人口と経済規模の格差
魏は中原を支配しており、人口・耕地・産業の面で圧倒的な優位にあった。一方、蜀は僻地であり、経済力に限界があった。『晋書』巻十四〈地理志〉によれば、魏の戸数・人口は以下の通りである:
「魏武据中原,戸六十六万三千四百二十三、口四百四十三万二千八百八十一。」
(『晋書』巻14 地理志)
これに対して、蜀の戸数は二十八万、人口は九十四万程度(『三国志』蜀書 後主伝 引用による)と推定されており、兵力動員力・財政基盤ともに魏の半分以下であった。このような資源格差の下で、継続的な攻勢作戦を展開することは極めて困難であった。
二、戦略的制約と外交的孤立
(1)「隆中対」戦略の破綻
諸葛亮は劉備に対し、荊州と益州の両方を拠点とし、天下を二分して魏を挟撃するという「隆中対」戦略を提唱した。しかし、この戦略は建安二十四年(219年)の関羽の敗死と荊州喪失により、根本的に破綻した。
『三国志』巻三十六〈蜀書・関羽伝〉には次のようにある:
「權遣將潘璋、璋部下司馬馬忠獲羽及其子平。」
(『三国志』蜀書 関羽伝)
また同伝には:
「權遣將逆擊羽,斬羽及子平於臨沮。」
荊州を失ったことで、蜀は東の出口を閉ざされ、魏に対する二正面作戦が不可能となった。これにより、諸葛亮は秦嶺越えの険路一筋に依存せざるを得ず、戦略的柔軟性を完全に失ったのである。
(2)呉との同盟の不安定性
蜀は形式上、呉と同盟関係にあったが、その信頼関係は常に不安定であった。夷陵の戦い(222年)では、劉備が関羽の仇討ちを名目に呉を攻撃し、両国の関係は深刻に悪化した。その後、諸葛亮は再び呉と和親を結ぶ努力をしたが、それはあくまで「魏を共通の敵とする」限定的同盟にすぎなかった。
『三国志』巻三十二〈蜀書・先主伝〉には、劉備の呉攻撃について:
「章武元年、先主忿孫権之侵暴、將東征。」
とあり、同盟関係の脆さが窺える。諸葛亮は単独で魏に対抗せざるを得ず、外交的孤立は戦略的負担をさらに増大させた。
三、人的要因と内部体制の限界
(1)人材の枯渇
蜀漢は建国当初から人材に恵まれていなかった。劉備亡き後、諸葛亮は内政・軍事・外交のすべてを一身に担わざるを得ず、過重な負担を強いられた。『三国志』諸葛亮伝にはこうある:
「政事無大小、咸決於亮。」
(『三国志』蜀書 諸葛亮伝)
この一文は、諸葛亮がいかに中央集権的に政務を掌握せざるを得なかったかを示しており、後継人材の不在を裏付けている。
(2)劉禅の無能と政治的基盤の脆弱性
後主劉禅は幼少より即位し、政治的判断力に欠けていた。諸葛亮は『出師表』において、劉禅に忠諫を呈している。『三国志』巻三十五に収録されたその一節は以下の通りである:
「親賢臣、遠小人、此先漢所以興隆也;親小人、遠賢臣、此後漢所以傾頽也。」
(『三国志』蜀書 諸葛亮伝所載『出師表』)
この忠告は、まさに蜀漢内部の政治的劣化を憂慮したものであり、諸葛亮がいかに内政面でも苦慮していたかを示している。
四、軍事的限界と戦術的膠着
(1)司馬懿との対峙と消耗戦
諸葛亮の最大の敵は魏の将軍・司馬懿であった。司馬懿は諸葛亮の攻撃を正面から受けることなく、持久戦・消耗戦に徹した。『資治通鑑』巻七十二(魏紀四、青龍二年、234年)には次のように記される:
「亮數挑戰、懿不出。亮乃遺懿巾幗婦人之飾。懿怒、上表請戰…」
(『資治通鑑』巻72)
しかし、司馬懿は魏の使者を通じて諸葛亮の過労状態を察知し、「戦わずして勝つ」戦略を貫いた。五丈原の戦いにおいて、諸葛亮は病没し、北伐は終焉を迎えた。
(2)技術的革新の限界
諸葛亮は木牛流馬や連弩などの兵器・輸送具を開発し、軍事技術の革新を試みた。『三国志』諸葛亮伝には:
「亮性長於巧思、損益連弩、木牛流馬、皆出其意。」
(『三国志』蜀書 諸葛亮伝)
と記されている。しかし、これらの発明も、地理的・物量的劣勢を覆すには不十分であった。
五、精神的支柱とその限界:『後出師表』における覚悟
諸葛亮の統一事業への執念は、『後出師表』(真偽論争はあるが、習鑿歯『漢晋春秋』が伝える)に端的に表れている:
「臣鞠躬盡力、死而後已。」
(『三国志』裴松之注引『漢晋春秋』所載『後出師表』)
この「死して後已む」という覚悟は、彼の人間像を象徴するものである。しかしながら、個人の忠誠と努力が、歴史の趨勢や構造的制約を乗り越えることはできなかった。
結論:天命か、人力か
諸葛亮が三国を統一できなかった理由は、単一の要因ではなく、地理的劣勢・戦略的破綻・人材不足・外交的孤立・敵将の有能さなど、多層的な構造的制約に起因する。彼は「鞠躬盡力、死而後已」の精神で国事に励んだが、歴史の趨勢と客観的条件はそれを許さなかった。