隋煬帝(楊広、569年-618年)は、中国史上において最も評価が分かれる皇帝の一人である。彼の治世は短期間ながらも、大運河の開鑿や科挙制度の整備、そして度重なる遠征など、後世に大きな影響を与えた政策を数多く実施した。一方で、「暴君」としての評価も根強く、民衆の苦しみや反乱の勃発といった負の側面も無視できない。
一、隋煬帝に対する伝統的評価:『隋書』における記述
唐代に編纂された『隋書』(著者:魏徴ら)は、煬帝に関する最も基本的な正史であり、その評価は後の歴代王朝にも大きな影響を与えた。『隋書』巻四〈煬帝紀〉の「史臣曰」には次のように記されている。
「負其富強之資,思逞無厭之欲……巡幸無度,貽殃兆庶。」
(『隋書』巻四・煬帝紀)
この一文は、煬帝が国家の富強を背景に際限なき欲望を追求し、制限なく巡幸を行い、民衆に災禍をもたらしたことを示している。このような記述は、煬帝を「暴君」として描く根拠として長らく用いられてきた。
また、同書の「史臣曰」では、煬帝の人間性についても厳しい批判が加えられている。
「煬帝負才矜己,志大識小;內懷險躁,外示凝簡。」
(『隋書』巻四・煬帝紀)
これは、煬帝が自分の才能に驕り、志は大きいが見識が狭く、内面では猜疑心と焦躁を抱えながら、外面だけ落ち着いた態度を装っていたという評価である。こうした記述は、煬帝の人間性に対する否定的見解を反映しており、唐代の政治的意図——すなわち隋の失政を強調することで唐の正統性を高める——も背景にあると考えられる。
二、煬帝の業績とその正当性
しかし、煬帝の治世には否定できない功績も存在する。特に以下の三点が重要である。
1. 大運河の開鑿
煬帝は中国南北を結ぶ大規模な水路網——大運河(京杭大運河の前身)を建設した。これは単なる奢侈の産物ではなく、経済・軍事・行政上の戦略的意義を持つ国家プロジェクトであった。『資治通鑑』(司馬光編)には次のようにある。
「發河南諸郡男女百餘萬,開通濟渠,自西苑引穀、洛水達於河,復自板渚引河歷滎澤入汴,又自大梁之東引汴水入泗,達於淮。」
(『資治通鑑』巻一八〇・隋紀四)
この記述は、煬帝が通済渠を開削し、西苑から穀水・洛水を引き、黄河に至らせ、さらに黄河から汴水・泗水を経て淮河に至る水路を整備したことを示している。この事業により、南北の物流が劇的に改善され、後の唐・宋時代における経済繁栄の基盤が築かれた。
2. 科挙制度の整備
煬帝は進士科を設置し、門閥貴族に依存しない人材登用の道を開いた。これにより、後の中国社会における官僚制度の骨格が形成された。『通典』(杜佑撰)には以下のように記される。
「煬帝始置進士之科,試策而已。」
(『通典』巻十五・選挙三)
この記述は、煬帝が初めて進士科を設け、策問(政策に関する論述)によって人材を選抜したことを示しており、彼の政治的先見性を裏付けるものである。
3. 東都洛陽の建設と国家基盤の再編
煬帝は大業元年(605年)、東都洛陽を新たな政治・経済の中心として建設を開始した。『隋書』巻三〈煬帝紀上〉には次のように記録されている。
「夏四月,詔尚書令楊素、納言楊達、將作大匠宇文愷營建東京……發丁男數十萬掘塹,徙豫州郭下居人以實之。」
(『隋書』巻三・煬帝紀上)
このように、煬帝は単に宮殿を造営しただけでなく、人口移動・倉廩整備・防御工事などを一体的に推進し、国家の統治能力を強化しようとした。含嘉倉・洛口倉などの大規模倉庫の建設もこの時期に行われ、後の唐王朝がこれを継承して安定した糧食供給体制を構築した。
三、史書の政治的偏向と再評価の動き
煬帝の評価が極端に否定的になった背景には、唐代の政治的必要があった。唐の建国者・李淵は隋の臣下であり、隋を打倒して新王朝を樹立したため、隋の失政を強調することが唐の正統性を確保する上で不可欠だった。そのため、『隋書』をはじめとする唐代の史書は、煬帝の過ちを誇張し、功績を軽視する傾向がある。
近年の歴史学界では、煬帝に対する再評価が進んでいる。例えば、中国の歴史学者・胡如雷は『隋煬帝評伝』(1980年代)において、煬帝を「理想主義的な改革者」と位置づけ、彼の政策が短期的には民衆を苦しめたものの、長期的には中国統一国家の基盤を固めたと論じている。
また、日本の中村圭爾氏も『隋煬帝とその時代』(2005年)の中で、「煬帝の失敗は、そのビジョンが時代を先行しすぎていたことに起因する」と指摘し、単純な「暴君」論に与していない。
四、民衆の視点と反乱の実態
煬帝の治世末期には、全国規模の反乱が勃発し、隋王朝は崩壊した。これは煬帝の政策が民衆に過酷な負担を強いた結果であることは否めない。『資治通鑑』には、煬帝の高句麗遠征と労役による民衆の疲弊が詳細に記されている。
「役使急迫,丁夫多死,婦女亦役於轉輸。耕稼失時,田疇多荒……屍骸盈路。」
(『資治通鑑』巻一八二・隋紀六)
この記述は、男子が不足するほど労役が過酷になり、ついには女性までが物資輸送に徴発され、農作業が滞って田畑が荒れ、道路に遺骸が積み重なった様子を描写している。このような惨状は、煬帝の政策が現実離れしていたことを示す有力な証拠である。
しかし、同時に注意すべきは、煬帝の政策がすべて即座に民衆を苦しめたわけではない点である。例えば大運河の建設も、初期段階では地方豪族の協力の下で進められ、一定の地域では経済的利益も生じていた。問題は、煬帝が複数の大規模プロジェクトを短期間に集中させ、かつ高句麗遠征などの軍事行動と並行して推進したことにある。
五、結論:暴君か、それとも悲劇の改革者か
煬帝の評価は一面的ではなく、多角的な視点が必要である。
- 『隋書』や『資治通鑑』などの正史は、煬帝を「欲望に溺れ」「民を顧みず」として厳しく非難している。
- しかし、大運河、科挙、東都建設などの政策は、後の中国史に不可欠な基盤を提供した。
- 唐代の史書には政治的偏向があり、煬帝の功績が意図的に矮小化された可能性が高い。
- 民衆の苦しみは事実だが、それは煬帝個人の性格よりも、当時の国家能力と政策規模のギャップに起因する側面が強い。
煬帝を単純に「暴君」と断じるのは妥当ではなく、むしろ「理想と現実のギャップに敗れた改革者」と評すべきであろう。彼の失敗は、後世の統治者にとって貴重な教訓となり、唐の太宗(李世民)が「民を本とせよ」という治国理念を掲げる契機ともなった。