科挙制度は、隋代に始まり、清末まで約1300年間にわたり存続した中国の官僚選抜制度である。この制度は、門閥貴族や世襲制による政治支配を打破し、「学而優則仕」(『論語・子張』)という理念に基づき、才能と学識を基準として官吏を登用することを目指した。従来の九品中正制や察挙制と比べて、形式的・制度的にはより広範な階層からの人材登用を可能にした点で、一定の公平性を備えていたと評価されることが多い。
しかし、その「公平性」が絶対的であったか、あるいは相対的に他制度と比較してのみ公平であったのかについては、慎重な検討を要する。
科挙制度の公平性を支える理念と実践
(1)「以文取士」:筆試による客観的評価
科挙制度の最大の特徴は、「以文取士」、すなわち文章によって人材を選び取る点にある。これにより、出自や財力ではなく、個人の学問的能力が重視された。唐代以降、進士科が重視されるとともに、詩賦が試験科目の中心となったが、これは必ずしも実務能力と直結しないとの批判もあった。杜佑は『通典』巻十七〈選舉五〉において次のように指摘している:
「進士者時共貴之,主司褒貶,實在詩賦……所習非所用,所用非所習。」
(進士は当時、一般に尊ばれたが、考官が評価を下すのは実際には詩賦に依拠していた……学ぶ内容は役立たず、役立つ内容は学ばない。)
この批判は、科挙が形式主義に陥りがちであったことを示しているが、一方で「以文取士」という客観的評価メカニズムが制度の根幹にあったことが確認できる。
(2)糊名・謄録制度の導入
宋代には、さらに公平性を高めるための制度改革が行われた。特に糊名(答案の氏名を隠すこと)および謄録(答案を他人が書き写して採点者に提出すること)の制度は、考官による私情や人脈の影響を排除する画期的な措置であった。朱熹は『朱子語類』巻百九〈論取士〉において次のように述べている:
「今州郡發解,皆糊名易書,此法甚善。」
(今日、州郡が解送試験を行うにあたり、すべて糊名・易書(=謄録)を用いるが、この法は極めて良い。)
この記述は、糊名・謄録制度が「寒畯之士」(貧しくても志のある士人)にも機会を与える公正な手段として認識されていたことを示しており、制度としての公平性の一端を如実に表している。
(3)「朝為田舍郎,暮登天子堂」:流動性の象徴
明代以降、科挙を通じた身分上昇の可能性は広く民衆に浸透し、『神童詩』(旧題:汪洙撰)には次のような詩句が収められている:
「朝為田舍郎,暮登天子堂。將相本無種,男兒當自強。」
(朝には農家の子、夕べには天子の朝廷に登る。将軍や宰相に生まれつきの種などない。男児は自ら励むべきである。)
この詩は、科挙制度が持つ「機会の平等」を象徴するものとして、明清時代の蒙書や通俗文学に頻出しており、社会的流動性への期待を反映している。
科挙制度の公平性に関する批判と限界
(1)地域格差と教育資源の偏在
科挙制度が形式的に公平であっても、実際には地方の教育水準や家庭環境の差が大きな障壁となった。清代の顧炎武は『日知録』巻十七「科舉」の条で、南北の及第格差について次のように述べている:
「至嘉靖末,乃分南、北、中卷……蓋謂南人雖才,不可盡用;北人雖朴,不可盡棄。」
(嘉靖末年になって、ようやく南巻・北巻・中巻に分けた……これは南方人はたとえ有能であっても全員を採用すべきでなく、北方人は質朴であっても全員を捨て去るべきでないという趣旨である。)
この記述は、科挙の公平性が地域間の教育格差や政治的配慮によって大きく制約されていたことを示しており、制度上の機会均等が必ずしも実質的公平につながらなかったことを意味する。
(2)八股文の形式主義と思想統制
特に明代以降、科挙の試験内容は「八股文」と呼ばれる極めて形式化された文体に固定され、受験者は独自の思想や批判精神を発揮することが困難となった。清代の龔自珍は『己亥雑詩』その一二五で嘆いている:
「九州生氣恃風雷,萬馬齊瘖究可哀。我勸天公重抖擻,不拘一格降人材。」
(天下の活力は風雷に頼るが、万馬が一斉に声を失うのは実に哀れだ。私は天帝に勧めたい。型にはまらない人材を降らせてほしいと。)
この詩は、科挙制度が人材の多様性を阻害し、国家全体の活力を奪っているという痛烈な批判であり、制度の公平性が思想的自由の抑圧と引き換えに成り立っていたことを示唆している。
他制度との比較における科挙の相対的公平性
科挙以前の主要な官吏選抜制度としては、漢代の「察挙制」および魏晋南北朝時代の「九品中正制」が挙げられる。察挙制は地方官が人材を推薦する方式であり、『漢書』巻六〈武帝紀〉には次のように記されている:
「(元光元年)十一月,初令郡國舉孝廉各一人。」
(元光元年十一月、初めて各郡国に命じて孝廉を一人ずつ挙げさせた。)
この制度は、徳行や名声に基づいて人材を推薦するものであったが、実際には有力者の子弟が優先されやすく、庶民の登用は極めて限定的であった。
また、九品中正制に関しては、『晉書』巻四十五〈劉毅伝〉に次のような有名な批判がある:
「上品無寒門,下品無勢族。」
(上位の品には貧しい家門の者がおらず、下位の品には権力ある一族の者がいない。)
この一文は、九品中正制が実質的に門閥貴族の特権を制度化したものであったことを端的に示しており、科挙制度がこうした身分制を打破した点で、相対的に公平であったと言える。
結論:公平性の相対性と歴史的意義
科挙制度はその理念と制度設計において、当時の世界でも稀有なほど高度な「形式的公平性」を備えていた。糊名・謄録といった技術的工夫、筆試による能力主義、そして出身地や家柄によらない登用原則は、封建社会の中で画期的なものであった。
しかしながら、教育資源の地域格差、試験内容の硬直化、さらには経済的負担といった構造的制約により、その公平性は常に限定的・相対的であった。科挙制度は「最も公平な」選抜方式であったとは言い切れないが、「同時代の他の制度と比べて、最も公平に近い方式であった」と評価するのが妥当であろう。