古代中国では、疫病や洪水・干ばつ・地震などの自然災害が頻繁に発生し、社会秩序や民生に深刻な影響を及ぼした。こうした危機に対し、当時の政府や知識人層、さらには一般民衆は、宗教的・政治的・医学的・制度的な多角的なアプローチを通じて対処を試みた。
疫病への対応
(1)医学的対策と伝染防止の認識
中国古代においては、疫病(「疫」または「瘟疫」とも称される)はしばしば「邪気」や「瘴気」の影響と捉えられていたが、同時にその感染性についてもある程度の認識が存在した。東漢末期の名医・張仲景(ちょう ちゅうけい)は、『傷寒雑病論』序文において次のように記している。
「余宗族素多,向餘二百。建安紀年以來,猶未十稔,其死亡者,三分有二,傷寒十居其七。」
(『傷寒雑病論』序、東漢・張仲景)
これは、建安年間(196–220年)に流行した疫病により、自らの一族200人のうち3分の2が死亡し、そのうち7割が「傷寒」によるものであったという痛切な体験談である。この記述は、疫病の猛威とその致死率の高さを示す貴重な一次史料であり、また張仲景が『傷寒論』を著した動機ともなった。
さらに明代には、呉有性(ご ゆうせい)が『温疫論』(1642年刊)において、疫病の原因を「戾気(れいき)」と名付け、それが口鼻から体内に侵入すると説いた。これは、微生物の存在を知らぬ時代においても、感染経路に関する先駆的な洞察を示したものと評価されている。
「邪自口鼻而入,則其所客,不在臟腑,不在經絡,舍於伏脊之內,…」
(『温疫論』巻上、明・呉有性)
(2)隔離措置と公的救済
疫病の蔓延を防ぐため、古代中国ではすでに隔離政策が採用されていた。『漢書』平帝紀には、西暦2年(元始2年)、朝廷が疫病患者を隔離収容する施設を設けたことが記録されている。
「民疾疫者,舍空邸第,為置醫藥。」
(『漢書』巻十二〈平帝紀〉、東漢・班固)
これは、病人を空き家に収容し、医薬を提供したという記述であり、世界でも極めて早期の公的隔離・医療措置の例とされる。
また、唐代には「悲田院」や宋代には「安済坊」など、貧困者や病人を救済する慈善施設が官民協力で運営され、疫病時にも活用された。特に宋の徽宗朝(12世紀初頭)には、中央政府が地方に命じて疫病対策として薬品を配布し、医師を派遣する制度が整備された。
自然災害への対応
(1)天人感応思想と政治的自己批判
古代中国では、「天人感応」(天と人間の間に相互作用があるとする思想)に基づき、自然災害は天が人君の失政に警告を発しているとの解釈が一般的であった。この考え方は、董仲舒(とう ちゅうじょ)によって体系化され、『春秋繁露』に詳しい。
「國家將有失道之敗,而天乃出災異以譴告之。」
(『春秋繁露』〈必仁且智〉、前漢・董仲舒)
この思想は、皇帝が災異に対して詔勅を発し、自らの過ちを認め、政策を見直す契機となった。例えば、後漢の光武帝は日食や地震の際に「罪己詔」を出し、官吏の不正を糾弾し、租税の減免を命じている。
(2)水利整備と備蓄制度
自然災害、特に洪水と干ばつへの対策として、古代中国では大規模な水利事業が展開された。戦国時代の李氷(り ひょう)父子が蜀地(現在の四川省)に築いた都江堰(とこうえん)は、灌漑と洪水制御を兼ねた代表的な土木工事であり、今日に至るまで機能している。
また、穀物備蓄制度である「常平倉」(じょうへいそう)は、漢の宣帝の時代(前1世紀)に耿寿昌(こう じゅしょう)の提案により創設された。豊作時に穀物を買い入れ、凶作時に放出することで、飢饉を緩和する狙いがあった。
「令邊郡皆築倉,以穀賤時增其賈而糴,以利農;貴時減賈而糶,以利民。」
(『漢書』巻二十四〈食貨志〉、東漢・班固)
この制度は後世の唐・宋・明・清各王朝にも継承され、災害時の食糧安全保障の柱となった。
(3)民間信仰と祭祀活動
政府の制度的対応と並行して、民衆は神仏や自然神への祈願や祭祀を通じて災厄の鎮静を図った。例えば、黄河の氾濫を鎮めるために「河伯(かはく)」への祭祀が行われ、旱魃時には「雨乞い」の儀礼が各地で執り行われた。『礼記』月令篇には、季節ごとの自然現象に応じた国家的祭祀の規定が記されており、災害予防の一環として位置づけられていた。
「命有司,為民祈祀山川百源,大雩帝,用盛樂。」
(『礼記』〈月令〉、戦国~前漢)
「大雩(たいう)」とは、旱魃時に天帝に雨を祈る国家的祭典であり、音楽や舞踏を伴う盛大なものであった。
総括:統合的危機管理の萌芽
古代中国人は、疫病や自然災害を単なる自然現象としてのみ捉えるのではなく、政治・倫理・宗教・医学・制度の複合的枠組みの中で理解し、対処しようとした。その中には、現代の公衆衛生や災害管理に通じる要素——隔離、備蓄、インフラ整備、リスクコミュニケーション(罪己詔や詔勅による民心安定)——がすでに芽生えていた。