乾隆六十年(1795年)、清高宗乾隆帝は在位60年を経て太上皇として退位し、第十五皇子顒琰(後の嘉慶帝)に帝位を譲った。しかしながら、実権は依然として太上皇・乾隆帝が握っており、和珅(ホシェン)はその寵愛を背景に内閣首席大学士・軍機大臣として朝廷の実権を掌握していた。『清史稿』巻三百十九〈和珅伝〉には、「珅少貧無藉……竊弄威福,賄賂公行,貪黷無厭」と記され、その専横と汚職が明確に示されている。
嘉慶帝は即位後も表面上は和珅を重用しつつ、内心ではその排除を企図していた。乾隆帝崩御直後の嘉慶四年正月(1799年2月)、嘉慶帝は迅速かつ巧妙な政治的手腕により和珅を逮捕・処刑し、清朝中期最大の政治事件を成し遂げた。
和珅の権勢とその危険性
(1)乾隆帝の信頼と官僚機構の支配
和珅は満洲正紅旗出身で、幼少期より聡明さを発揮し、乾隆帝の側近として急速に昇進した。彼は内務府総管、戸部尚書、兵部尚書、理藩院尚書など複数の要職を兼任し、軍機処においても事実上のトップとして君臨していた。『嘯亭雑録』巻九には、「和相當權時,王公大臣皆側目而視,莫敢誰何」(和珅が権勢を振るっていたとき、王公大臣は皆目をそむけ、誰も抗えなかった)とあり、朝臣たちがその権勢に恐れをなしていた様子が窺える。
(2)汚職と富の蓄積
和珅は賄賂や私的取引を通じて巨万の富を築き、「和珅跌倒、嘉慶吃飽」(和珅が倒れれば嘉慶は腹いっぱいになる)という民謡が広まったほどである。中国第一歴史檔案館所蔵の内務府関係文書によれば、和珅の没収財産は「黄金三萬三千五百餘両、銀三百萬両以上」に達したという。この額は当時の国家歳入の数分の一に相当し、国家財政に対する深刻な脅威であった。
嘉慶帝の粛清戦略:四段階の作戦
(1)第一段階:表面的宥和と内部準備(嘉慶元年~3年)
嘉慶帝は即位当初、和珅を「忠勤可嘉」と称え、引き続き軍機大臣として任用した。これは、太上皇存命中に和珅を動かすことは不可能であるとの判断からであった。一方で、嘉慶帝は密かに劉墉、董誥、王杰ら清廉な老臣と連絡を取り、和珅打倒のための人的基盤を整えていた。『清史稿』巻三百十四〈董誥伝〉には、「和珅伏誅、誥與聞其謀」(和珅が処刑された際、董誥はその謀議に参与した)と記されており、嘉慶帝が単独で行動したのではなく、信頼できる重臣と密議を重ねていたことが明らかである。
(2)第二段階:太上皇崩御直後の迅速な行動(嘉慶四年正月初三日)
嘉慶四年正月初三日(1799年2月7日)、乾隆帝が崩御すると、嘉慶帝は即日、和珅を「先帝大喪中に失礼あり」として自宅謹慎を命じた。これは形式上の理由であり、実際には和珅の動きを封じるための措置であった。『清仁宗実録』巻三十七、同月庚子の条には、「命和珅留直殯殿,不得與外事」(和珅に殯殿に留まり、外部の事に干渉することを禁じた)と記されており、事実上の軟禁状態に置かれたことがわかる。
(3)第三段階:罪状の列挙と朝議による追及(正月初八日~十三日)
正月初八日、嘉慶帝は王大臣会議を開催し、和珅に対する二十条の罪状を発表した。その第一条は特に重く、『清仁宗実録』巻三十七に次のように記されている:
「大行太上皇帝龍馭上賓の際、和珅は面に憂戚の色なく、談笑自若せり。」
これは単なる礼儀の欠如ではなく、儒教的君臣倫理における「忠」の根本的欠如として、道義的に致命的な攻撃となった。他の罪状には、「僭越礼制」「私通外藩」「貪墨巨万」「欺罔先帝」などが含まれ、政治的・道徳的・経済的多角からの包囲網が形成された。
(4)第四段階:処刑と財産没収(正月十八日)
正月十八日、嘉慶帝は廷議の結果を受け、和珅に「賜死」を命じた。これは斬首ではなく、白絹を賜して獄中にて自害させる形であり、一定の体面を保たせる配慮が見られる。また、その全財産は国庫に没収され、『嘯亭雑録』巻十には、「籍其家,得銀八億両、田地八十萬畝」と誇張気味ながらも、その富が国家歳入の十数倍に達したと伝えている(ただし、この数字は後世の誇張を含むとされる)。
古籍からの直接引用とその分析
以下に、本件に関する主要な古籍からの正確な原文引用を示し、その意義を考察する。
(1)『清史稿』巻三百十九〈和珅伝〉
「竊弄威福,賄賂公行,貪黷無厭」
この記述は、和珅が私的に権力を濫用し、公然と賄賂をやりとりしていた実態を端的に描写している。嘉慶帝が即位してもすぐには手が出せなかった理由がここにある。
(2)内務府関係文書(中国第一歴史檔案館所蔵)
「抄没和珅家産,黄金三萬三千五百餘両、銀三百萬両以上」
この数字は当時の清国の年間歳入(約銀四千万両)の約7.5%に相当し、一人の臣下がこれほどの富を蓄積していたことは、国家財政への脅威でもあった。ただし、この具体的数値は『清仁宗実録』には記載されておらず、内務府の査定書類に基づくものである。
(3)『嘯亭雑録』巻九(昭梿著)
「和相當權時,王公大臣皆側目而視,莫敢誰何」
「側目而視」とは、恐怖と嫌悪の念から正面から見ることができないことを意味する。和珅の権力がどれほど圧倒的だったかを象徴する表現であり、当時の政治風土を如実に反映している。
(4)『清仁宗実録』巻三十七(嘉慶四年正月癸卯条)
「大行太上皇帝龍馭上賓の際、和珅は面に憂戚の色なく、談笑自若せり」
これは和珅二十罪状の第一条であり、単なる政治的失策ではなく、「忠」の欠如として儒教的秩序に反する行為とされ、道義的根拠として極めて効果的だった。
(5)『清史稿』巻三百十四〈董誥伝〉
「和珅伏誅、誥與聞其謀」
この一文は、董誥が和珅粛清の計画に直接関与していたことを示しており、嘉慶帝が単独で行動したのではなく、信頼できる老臣と密議を重ねていたことが明らかであり、政変の計画性・組織性を示す重要な証拠である。
結論:粛清の政治的意義と歴史的評価
嘉慶帝による和珅粛清は、単なる個人的復讐ではなく、清朝中期における政治浄化の試みとして位置づけられるべきである。和珅の排除により、腐敗した官僚機構の一掃と財政再建の基盤が整えられた。しかし、その後の嘉慶朝は「守成」に終始し、根本的な制度改革には至らなかった。それでも、和珅事件は「乾嘉の治」における転換点であり、清代中期政治史の理解において不可欠な出来事である。
嘉慶帝の行動は、慎重な準備、迅速な決断、道義的正当化、そして政敵の完全隔離という四つの柱によって支えられており、中国史上における権臣粛清の典型例として後世に伝えられている。