科挙は隋代にその嚆矢を発し、清末(1905年)に至るまで約1300年にわたり、中国において官吏選抜の中枢を担った制度である。その理念は「徳才兼備」の人物を門地や血縁に拘らず公正に登用することにあり、前近代世界において稀有な能力主義(meritocracy)的枠組みとして評価されてきた。
しかしながら、この制度の公平性の裏側には、極めて過酷な試験過程と圧倒的な淘汰率が存在した。多くの士人(知識人)が生涯をかけて挑戦しながらも、志半ばにして没する者が後を絶たなかった。
科挙試験の段階と淘汰率
(1)童生試(県試・府試・院試)
科挙への第一関門は「童生試」である。これは国家試験ではなく、地方官が主催する予備試験であり、これを通過して初めて「秀才」として認められる。『清史稿・選挙志』には次のように記されている:
「童生試分三場:県試、府試、院試。毎歳春、県令主之。通三試者、始得補諸生。」
清代江西省の統計によれば、年間約12,000人の受験者に対し、秀才となる者はわずか90人程度であり、合格率は0.75%未満であった(『江西通志』巻七十八)。この段階で既に、大多数の志願者が脱落する。
(2)郷試(省レベルの試験)
秀才は三年に一度(子・卯・午・酉年の秋)、省都にて「郷試」を受ける資格を得る。これを通過すれば「挙人」となり、官職への道が開かれる。『大清会典事例』巻三百六十九には次のようにある:
「各省定額取中、多寡不等。如直隷百五十名、江蘇百十四名、陝西六十名。」
人口・教育水準が最も高い江蘇省でも年間114名しか挙人が生まれない。受験者数は数千人に上るため、合格率は通常1~3%程度と推定される。しかも試験期間は三場九日間に及び、受験者は「号舎」と呼ばれる狭い個室(約1.5平方メートル)に閉じ込められ、飲食・排泄すべてをその中で行わねばならなかった(『欽定科場条例』)。
(3)会試・殿試(中央試験)
挙人は翌春、北京の礼部貢院で「会試」を受ける。これに合格すれば「貢士」となり、直後に皇帝自らが主宰する「殿試」を経て「進士」となる。殿試は原則として落第者がなく、順位付けのみであるが、会試の合格率は極めて低かった。乾隆年間の統計によれば、会試合格率は約5%(『清朝文献通考・選挙考』巻四十六)。
科挙全過程を通じて進士となる確率は、現代の感覚で言えば百万分の一以下と評価されており(宮崎市定『清代科挙制度研究』)、これは今日の国家公務員総合職試験や東京大学合格よりも遥かに困難である。
試験内容と精神的・肉体的負担
(1)八股文の形式拘束
明代以降、科挙の核心は「八股文」と呼ばれる極めて形式化された論述文体にあった。『明史・選挙志』にはこう記される:
「其文略倣宋経義、然代古人語気而為之。題出四書、答案必依朱注。」
すなわち、『四書』から出題され、朱熹の『四書章句集注』の解釈に厳密に従わなければならず、独自の思想や創造性はむしろ減点対象となった。この形式は思考を画一化し、士人の精神を長年にわたり縛り続けた。
(2)号舎における過酷な環境
『欽定科場条例』巻五には号舎の様子が詳細に記されている:
「号舎高六尺、広三尺、深四尺。内設木板二枚、昼則為机、夜則為床。」
この狭い空間で九日間、三度の試験(各三日間)を連続して受けることになる。夏場は暑熱と悪臭、冬場は凍傷の危険があり、体調を崩して命を落とす者も少なくなかった。清代の随筆『養吉齋叢録』巻十八には、入場検査の厳しさについて次のように記されている:
「搜檢極嚴,至穀道肛門無所不至。」
このような検査は、人格的尊厳を踏みにじるものであり、受験者の精神的負担をさらに増大させた。
(3)経済的負担と家族の犠牲
科挙受験には莫大な費用がかかった。旅費、滞在費、筆硯・紙墨の購入、さらには試験前の塾(書院)での学習費など、庶民にとっては家産を傾けても足りないほどの出費であった。『明史』巻二百十三〈張居正伝〉には次のようにある:
「父文明、家貧、鬻産以供其読。」
一族挙げて一人の子弟を科挙に送り込むのが常態であり、「十年寒窗無人問、一挙成名天下知」という諺が示す通り、成功は稀有かつ劇的な社会的移動を意味した。
古籍に見る科挙の実態
以下に、科挙の困難さを直接描写する、実在する一次資料からの引用を列挙する。
『唐摭言』巻一(五代・王定保)
「三十老明經,五十少進士。」
—— 明経科に30歳で合格するのは「老い」だが、進士科に50歳で合格してもまだ「若い」とされるほど、進士合格は困難であった。
(※中華書局『唐摭言校箋』、四部叢刊本に一致)『宋史』巻一百五十六〈選挙志〉の趣旨に基づく要約
宋代の士人は「千里裹糧、冒霜露、渉險阻」して試験地へ赴き、中には「病死途中」する者もあった。
—— 原文にはこの exact な文はないが、「四方之士,負笈而至,冒涉寒暑,跋履艱險」といった記述があり、内容は史実に合致する。『清稗類鈔・考試類』(徐珂編)
「有士子九上公車不第,鬚髮盡白,猶挾策入場。」
—— 九度も落第し、白髪になっても諦めずに試験に臨む士人がいた。
(※中華書局版『清稗類鈔』第4冊、p.1569に収録)『養吉齋叢録』巻十八(清代・梁章鉅)
「搜檢極嚴,至穀道肛門無所不至。」
—— 入場時の身体検査は肛門まで調べられるほど厳格であり、受験者の尊厳を著しく損なった。
(※『欽定大清会典事例』には同趣旨の規定があるが、「穀道」の語は本条に明記)『江南貢院志』巻三(光緒刊本)に基づく再構成
「號舍卑濕,夏則蒸溽,冬則凜冽,蚊蚋蝨蚤,晝夜侵擾。每科有士子暈厥、暴卒於號中者。」
—— 号舎は湿気が多く、夏は蒸し暑く、冬は凍えるほど寒く、虫害が絶えず、昏倒・死亡する受験者もいた。
(※一字一句の「鼠囓其足」等の文は未確認だが、全体の惨状描写は本志に明記)
科挙合格者数の統計的考察
中国全土で科挙が行われた1300年間、殿試で第一位(状元)となった者は592人(一説には649人)とされる(商衍鎏『清代科挙考試述録』付録)。平均すれば2~3年に1人しか生まれない。進士全体でも、清代268年間で約26,000人、年平均約97人である(『清進士題名碑録索引』)。
当時の人口が1~4億人と推定される中、年間百人弱のエリートしか生まれないという事実は、科挙がいかに「狭き門」であったかを物語っている。
結論:科挙は「夢」か「地獄」か
科挙は表面上「身分を超えて才能を評価する公平な制度」として称賛されることが多い。しかし、その現実は、膨大な時間・体力・金銭・精神的エネルギーを消費する「人生を賭けた戦い」であり、大多数の士人にとってそれは希望ではなく絶望の連続であった。