中国歴代王朝において、皇帝の巡幸(巡狩・巡幸)は単なる移動ではなく、天命を体現し、地方官吏や民衆に対して皇権を示す重要な政治行為であった。『礼記』にその理念的根拠が記され、後世の諸王朝においても制度として継承された。しかしながら、特に清代に至ってその規模は極めて巨大となり、莫大な財政負担を国庫にもたらした。
巡幸の制度的背景と目的
政治的意義
古代中国において、天子の四方巡行は統治の正統性を確認する礼制として定められていた。『礼記・王制』には次のように記されている:
「天子五年一巡守。二月,東巡守,至于岱宗,柴而望祀山川;覲諸侯……諸侯朝于方岳之下。」
——『礼記・王制』(『十三経注疏』所収)
この「巡守」(後世「巡狩」とも書く)は、単なる儀礼ではなく、諸侯の忠誠を確認し、風俗・民情を視察する統治行為であり、後世の皇帝巡幸の思想的淵源となった。
清代における巡幸の実態
清代においては、康熙帝・乾隆帝が江南への南巡を繰り返し、その規模は前代未聞のものとなった。特に乾隆帝は六度にわたり江南を巡幸し、そのたびに巨額の費用が支出された。これは『清史稿』にも「帝屢南巡,民力漸罷」と記されるほど、国家財政および地方民衆に深刻な影響を与えた。
巡幸費用の具体的内訳
道路整備・橋梁修築費
皇帝一行が通過する街道は、事前に徹底的な整備が施された。趙翼(乾隆朝の官僚)はその著『簷曝雑記』巻1において次のように記している:
「南巡供億,江浙二省費至三百餘萬(両)。」
——趙翼『簷曝雑記』巻1
この「三百餘萬両」には、御道の舗装、橋梁の補強、河川の浚渫、驛站の増設などが含まれており、これは当時の江蘇・浙江両省の年間歳入を大きく上回る金額である。
宮殿・行在所の建設・改修費
皇帝が宿泊する行宮(行在所)の建設も多大な費用を要した。『南巡盛典』(高晋編、乾隆三十五年刊)には、杭州・紹興・揚州等地における行宮の新築・修繕について詳細に記録されており、個別の工事費を合算すると、80万両を超える支出があったと推定される。例えば、西湖畔の杭州行宮の修繕だけで「銀十二万両余」とある(『南巡盛典』巻35)。これらの行宮は一時使用にとどまらず、維持管理費も永続的に発生した。
警備・供応・接待費
警備兵力の配置、食糧・物資の調達、地方官による接待なども膨大なコストを伴った。魏源は『聖武記』巻12において次のように述べている:
「六巡江南,供億浩繁,所費不下二千萬(両)。」
——魏源『聖武記』巻12
この「二千萬両」という数字は六回の南巡全体の総計と解釈されており、一回あたり平均300~400万両に相当する。これは乾隆年間の清朝国庫歳入(約4,000~5,000万両)の6~10%を一回の巡幸で消費することを意味する。
贈答・恩賞費
皇帝は巡幸先で臣下や有力者に金銀・綾羅・官位などを下賜することが常であった。『清史稿・陳宏謀伝』には次のように記されている:
「上南巡,褒其廉幹,賜帑金、文綺,加太子太傅。」
——『清史稿』巻307
このような恩賞は個別には数万両規模でも、累積すれば数十万両に達した。特に乾隆帝は「示恩以固人心」を意図して積極的に恩賞を行っており、これがまた財政負担の一因となった。
国庫への影響と批判
財政逼迫の実態
乾隆帝の南巡は六回行われ、その都度巨額の支出が繰り返された。『清史稿・高宗本紀』には次のようにある:
「帝屢南巡,民力漸罷。」
——『清史稿』巻14
この簡潔な記述は、巡幸が地方財政および民衆生活に深刻な打撃を与えていたことを端的に示している。また、同時代の官僚・尹壮図は乾隆五十五年に上奏して次のように痛烈に批判している:
「近年南巡、北狩、費用浩大、州県疲弊、民力已竭。」
——『清高宗実録』巻1359(乾隆五十五年十月)
この奏摺は、巡幸が「奢侈」ではなく「民害」として認識されていたことを裏付ける貴重な一次史料である。
比較的抑制された巡幸例
一方で、雍正帝は父・康熙帝の南巡を「過度の奢侈」として避け、自らはほとんど巡幸を行わなかった。『雍正朱批諭旨』には、田文鏡宛ての朱批として次のような記述がある:
「朕素性最惡虛文,凡事必求實際。」
——『雍正朱批諭旨』(雍正四年、田文鏡宛)
この姿勢により、雍正朝は財政再建に成功し、乾隆初期の豊かな国庫を支える基盤が築かれたとも言える。
結論
皇帝の巡幸は、『礼記』に理想化された「天子巡守」の理念を体現する政治行為ではあったが、清代に至ってはその規模が肥大化し、国家財政に甚大な負担を強いるものとなった。乾隆帝の六回の南巡は、総計で2,000万両以上を費やしたとされ、これは当時の国庫歳入の半分近くに相当する巨費である。