中国の政治・社会体制は、古代から一貫して「中央集権的官僚制」を基盤として発展してきた。これに対し、中世ヨーロッパでは「封建制度(Feudalism)」と呼ばれる、領主と封臣の契約関係に基づく分権的な貴族支配が広く普及した。
一、中国における「封建」概念の特殊性
1.1 「封建」とは何か:周代の分封制
中国において「封建」という語は、本来「封土建国」、すなわち諸侯に土地を与え、その地に国を建てさせる制度を指す。これは周王朝初期(紀元前11世紀頃)に確立された「分封制」に由来する。この制度の目的は、王室の血縁者や功臣を地方に配置し、周王朝全体を守備網として統合することにあった。この思想を最も端的に表現したのは『春秋左氏伝』である:
「昔周公吊二叔之不咸、故封建親戚、以蕃屏周。」(『春秋左氏伝・僖公二十四年』)
この文は、「かつて周公が管叔・蔡叔(二叔)の不和を嘆き、そのため親族を封建して周を守る藩屏とした」と述べており、周初の分封が王朝防衛の戦略的措置であったことを示している。しかしこの制度は時間の経過とともに諸侯の独立性を高め、春秋戦国時代には周王室の権威は形骸化し、諸侯間の戦争が激化した。
1.2 封建制の限界と批判
秦の始皇帝による統一(紀元前221年)後、丞相李斯は「封建制」の危険性を強調し、代わりに「郡県制」の導入を主張した。司馬遷の『史記・秦始皇本紀』には以下の記述がある:
「周文武所封子弟同姓甚衆、然後属疎遠、相攻擊如仇讐、諸侯更相誅伐、周天子弗能禁止。」(『史記・秦始皇本紀』)
これは、「周の文王・武王が封じた同姓の子弟は非常に多かったが、その後、血縁関係が疎遠となり、互いに仇敵のごとく攻め合い、諸侯が互いに殺し合うに至り、周の天子もこれを禁じることができなかった」という意味である。この批判は、封建制が長期的には国家統一を阻害するという認識を反映しており、秦が郡県制を採用する決定的要因となった。
二、中央集権体制の確立と継続
2.1 郡県制の導入とその意義
秦の統一後、全国を三十六郡に分け、各郡に中央から派遣された官僚(郡守・県令)を置く「郡県制」が施行された。これは、地方支配を血縁や世襲ではなく、皇帝直属の行政機構によって行う画期的な制度であった。班固の『漢書・地理志』には次のようにある:
「秦遂並兼四海、以周制微弱、終為諸侯所喪、故不立尺土之封、使子弟為匹夫。」(『漢書・地理志』)
この記述は、「秦は天下を併合し、周の制度が脆弱で諸侯によって滅ぼされたため、寸土たりとも封土を与えず、自らの子弟さえもただの平民(匹夫)とした」と述べており、秦が封建制を完全に否定し、中央集権を徹底したことを示している。
2.2 漢代以降の制度的継承
漢の高祖劉邦は当初、一部の功臣や皇族に王国を封じた(郡国併行制)が、景帝期の「七国の乱」(紀元前154年)を経て、再び中央集権の強化が進んだ。武帝期には主父偃の建言により「推恩令」が施行され、諸侯の子弟にも分割相続を認めることで、諸侯国の実質的力を削いだ。『漢書・主父偃伝』にはその趣旨が明確に記されている:
「願陛下令諸侯得推恩分子弟、以地侯之。彼人人喜得所願、上以徳施、実分其国、不削而稍弱矣。」(『漢書・主父偃伝』)
この政策により、「諸侯の領地は次第に分割され、勢力は自然に弱体化した」(『資治通鑑』巻十八、意訳)という効果が生じ、世襲貴族の政治的影響力は徐々に排除されていった。
三、思想的・文化的基盤の違い
3.1 儒教と法家の影響
中国では、儒教が「忠」「孝」「礼」を重視し、君臣関係を倫理的に秩序づける一方で、法家は「法」による統治を重視し、身分世襲よりも能力主義を支持した。特に韓非子や李斯ら法家思想は、秦の中央集権体制の理論的支柱となった。『韓非子・五蠹』には次の一節がある:
「聖人不期修古、不法常可、論世之事、因為之備。」(『韓非子・五蠹』)
これは、「聖人は古を模範とせず、常道を法とはしない。時代の事情を論じ、それに対応する備えを設けるべきである」という意味であり、伝統的貴族制への批判と、現実に即した制度改革の必要性を説いている。
一方、儒教も必ずしも貴族制を支持していたわけではない。『春秋左氏伝・昭公七年』には以下のような階級秩序に関する記述がある:
「天有十日、人有十等……王臣公、公臣大夫、大夫臣士、士臣皁、皁臣輿、輿臣隷、隷臣僚、僚臣僕、僕臣臺。」(『春秋左氏伝・昭公七年』)
この記述は厳格な身分序列を描写しているが、孔子自身は「有教無類」(教育に身分の区別なし)を唱え、学問と徳行を通じた社会的上昇を容認していた。この思想的土壌の上に、隋唐以降の科挙制度が成立し、官僚登用は血統ではなく能力に基づくものとなった。
3.2 科挙制度と貴族制の排除
隋・唐以降、科挙制度が整備されると、官僚登用は血統ではなく試験成績に基づくようになった。これにより、世襲貴族の政治的影響力はさらに縮小した。宋代になると、科挙合格者が官僚の主流となり、「士大夫」階層が形成されたが、これはヨーロッパの「貴族」(nobility)とは本質的に異なる、知的エリートとしての身分であった。
四、地理的・経済的要因
4.1 大河文明と大規模灌漑の必要性
黄河・長江流域を中心とする中国は、大規模な治水・灌漑事業を必要とする農耕文明であり、そのためには強力な中央政権が不可欠であった。孟子は『孟子・滕文公上』で次のように述べている:
「禹疏九河、瀹濟漯而注諸海、決汝漢、排淮泗而注之江、然後中国可得而食也。」(『孟子・滕文公上』)
大禹の治水神話は、単なる伝説ではなく、中国文明が「大規模公共事業=中央権力」の構図を早期に内包していたことを象徴している。このような環境下では、地方分権的な封建貴族制よりも、資源を集中管理できる中央集権体制が自然と選ばれたのである。
4.2 商業と都市の性格
ヨーロッパの中世都市は、自治権を持ち、貴族や教会から独立して商業を営む「自由都市」として発展した。これに対し、中国の都市は常に行政中心地であり、商業活動も国家の統制下に置かれていた。唐代の「市坊制」や宋代の「市制緩和」も、あくまで国家による管理の枠内で行われた変化であり、自律的な市民階級の台頭は見られなかった。
結論
以上のように、中国がヨーロッパ型の封建貴族制度を形成しなかった理由は、多層的な要因に起因する。第一に、周代の封建制が内包していた分裂的傾向が早くから認識され、秦・漢を通じて郡県制へと転換されたこと。第二に、儒教・法家などの思想が、血統よりも徳・能力を重視する価値観を提供したこと。第三に、大河文明としての地理的条件が、中央集権的な統治を必然化したこと。これらの要素が複合的に作用し、中国は「世襲貴族による分権支配」ではなく、「皇帝―官僚」による中央集権体制を維持し続けたのである。