王莽は本当にタイムトラベラー(異時空からの来訪者)だったのでしょうか?

· 古代中国の長い流れ

近年、インターネットや一部の通俗歴史書において、前漢末・新朝の創始者である王莽(おう ぼう、紀元前45年-紀元23年)が「現代から古代へタイムスリップした人物ではないか」という仮説が流布されている。この説は、王莽が推進した一連の政策や制度が、当時の常識を逸脱しすぎており、「未来の知識」を持ち込んだとしか思えないという直感に基づいている。

以下の観点から論じる:

  1. 王莽の政策は儒教経典、特に『周礼』に基づく古典主義的復古思想に根ざしている。
  2. 当時の社会矛盾と災異思想が、彼の急進的改革を可能にした。
  3. 古代文献に見られる王莽評価は、決して「未来人」としてではなく、あくまで同時代の政治家として記録されている。

王莽の改革思想の源泉:『周礼』を中心とする古典主義

王莽の政策の多くは、後世の目には極めて「近代的」あるいは「社会主義的」に映る。例えば、土地の国有化(王田制)、奴婢の売買禁止、国家による物価統制(五均六筅)などは、現代の社会保障制度や計画経済を連想させる。しかし、これらの制度は決して未来からの導入ではなく、古代の理想国家を模倣しようとした結果である。

『漢書』巻九十九中『王莽伝』には次のように記されている:

「莽乃起明堂、辟雍、霊台,為學者築舍萬區,作市常滿倉,立五均官,司市稱貸,以抑兼併。」
(『漢書』巻九十九中)

これは、王莽が儒教的理想施設(明堂・辟雍・霊台)を建設し、学者のための宿捨を一万区画も築き、さらに市場と常満倉(国家備蓄倉庫)を整備し、五均官を置いて市場と貸付を管理し、富の集中を抑制しようとしたことを示している。これらの施策はすべて、『周礼』に記された古代周王朝の制度を模倣したものである。

また、『周礼』自体が、戦国時代から漢代にかけて編纂されたとされるが、王莽はこれを「聖王の遺典」として絶対視していた。『漢書』巻二十四下『食貨志』にも次のような記述がある:

「莽遂據『周官』『王制』之文,造井田制,令天下男丁受田百畝,女五十畝。」

ここでの『周官』とは『周礼』の別称であり、王莽は『周礼』および『礼記』中の『王制』篇に基づいて井田制を復活させようとしたことが明確に記録されている。これは「未来の知識」ではなく、「過去の理想」への回帰なのである。


社会的背景と災異思想:王莽政権成立の条件

王莽が政権を掌握できた背景には、前漢末期の深刻な社会矛盾と、当時広く信じられていた「災異思想」があった。漢代の儒教思想においては、天命(天の意志)は徳のある者に与えられ、徳を失えば災異(地震・干ばつ・彗星など)によって警告され、最終的には王朝交替が起こると考えられていた。

『漢書』巻九十九上『王莽伝』には、王莽が摂政となる過程で多くの祥瑞(めでたい兆し)が現れたと記されており、これが彼の正統性を支えた:

「鳳凰集於沛,甘露降於未央宮,神雀翔於東郡。群臣奏曰:『天命有徳,宜登大位。』」

このような記述は、王莽自身が意図的に演出した可能性もあるが、同時に当時の民衆や官僚が「天命の移動」を強く信じていたことを示している。王莽は自らを「周公の再来」と位置づけ、孔子が夢見た「礼楽の興隆」を実現すると宣言した。これは「タイムトラベラー」としての自己認識ではなく、むしろ儒教的な聖人の系譜に自らを位置づけようとする試みであった。


同時代人の目:王莽は「狂人」か「聖人」か

王莽に対する同時代人の評価は二極化しており、「聖人」と見る者もいれば、「偽善者」「狂人」と見る者もいた。しかし、いずれにせよ「未来から来た者」といった認識は一切存在しない。

班固(はんこ)が著した『漢書』は、後漢の公式史書であり、王莽を「逆臣」として断罪しているが、その描写もあくまで人間的・政治的な範疇に留まっている:

「莽既不仁,而復無知,妄引經義,以飾姦言。」
(『漢書』巻九十九下)

これは「王莽は仁愛もなく、しかも無知であり、勝手に経書の文句を引き合いに出して、悪巧みを飾った」という意味であり、彼の行動原理が儒教経典の誤用にあると批判している。ここでも「未来の知識」や「異常な技術」への言及は一切ない。

さらに、『後漢書』巻十三『隗囂伝』には、王莽滅亡後の評として次のようにある:

「王莽篡盗、天下共嫉。」

これは「王莽は帝位を簒奪し、天下の人々が共に憎んだ」という簡潔な評価であり、彼が「異質な存在」ではなく、単なる「簒奪者」として認識されていたことを示している。


「タイムトラベラー説」の問題点:歴史解釈の歪み

王莽の政策が現代的と見えるのは、むしろ現代人が過去を現代の価値観で読み返す「アナクロニズム(時代錯誤)」の結果である。例えば、「王田制」は土地国有化に似ているが、その目的は平等ではなく、古代の身分秩序の再建にある。また、「奴婢の売買禁止」も、人権思想に基づくものではなく、『周礼』に「民は売買すべからず」とあることへの忠実な模倣にすぎない。

さらに重要なのは、王莽の政策はほとんどが失敗に終わり、民衆の反発を招き、赤眉の乱や緑林の乱といった大規模な反乱を引き起こしたことである。もし本当に「未来の知識」を持っていたならば、このような致命的な政策ミスは避けられたはずである。


結論:王莽は「古典主義者の悲劇」の象徴である

王莽はタイムトラベラーではない。彼は、儒教経典に描かれた理想世界を、現実に実現しようとした熱烈な古典主義者であり、その信念の強さゆえに、現実とのギャップに気づかぬまま破滅へと向かった悲劇的人物である。彼の「異質さ」は、未来からの来訪者というファンタジーではなく、古代中国における思想と政治の緊張関係の産物として理解されるべきである。

古籍の記述を通じて明らかになるのは、王莽がいかに『周礼』『礼記』『春秋』といった経書に依拠し、それらを文字通りに実行しようとしたかという点である。彼の失敗は、理想主義の限界を示す歴史上の貴重な事例であり、現代においても「理念と現実の乖離」に関する深い教訓を提供している。