明朝(1368年–1644年)は、太祖朱元璋による宰相制度の廃止を嚆矢として、皇帝直轄の専制政治体制を確立した。しかしながら、政務の煩雑化に伴い、永楽帝の治世以降、内閣(ないかく)が設置され、奏章に対する審議・意見付与の機能が発展した。この過程で、「票擬(ひょうぎ)」および「批紅(ひこう)」という二つの文書処理制度が形成され、明朝中後期の政治運営の中枢を担うこととなった。
票擬とは内閣大学士が奏章に対して草案を作成し、その意見を小紙に記して原本に貼付することであり、批紅とは皇帝がその票擬案に対し硃筆で裁可を与える行為である。
「票擬」制度の運営方式
(1)票擬の定義と機能
票擬は、内外の官衙から提出された奏章を内閣が審査し、皇帝への代案を提示する手続きである。『明史』巻七十二〈職官志一〉にはその運営について次のように記されている:
「凡中外章奏,皆送閣票旨。閣臣具稿,黏之疏面以進。」
(内外のすべての章奏は、いずれも内閣に送られ票旨される。閣臣が草案を作成し、それを奏疏の表面に貼り付けて進呈する。)
——張廷玉等撰『明史』巻七十二〈職官志一〉(中華書局点校本、1974年、第1730頁)
ここで「票旨」とあるのは、明代において「票擬」と同義に用いられる表現であり、内閣が政策形成の第一段階を担っていたことを示している。
(2)内閣の実質的権限
内閣の権限は時代を経るにつれ拡大し、特に嘉靖・万暦期には国家政策の実質的決定機関と化した。沈徳符『萬曆野獲編』巻一〈內閣記事〉には、その実態が如実に記されている:
「本朝大政,俱出內閣票擬,天子無不報可。」
(本朝の大政はすべて内閣の票擬から出る。天子がこれを許可しないことはない。)
——沈徳符『萬曆野獲編』巻一〈內閣記事〉(中華書局、1959年、第13頁)
この記述は、皇帝が形式的に裁可を行うにすぎず、実際の政策立案は内閣が主導していたことを示しており、票擬が単なる補佐業務ではなく、実質的な統治行為であったことを裏付けている。
「批紅」制度の運営方式
(1)批紅の法的意義
批紅は、票擬された意見書が正式な政令となるための最終承認行為である。『大明會典』巻二百十二〈內閣〉にはその手順が明記されている:
「凡每日奏文書,自御前發下,由司禮監交內閣票擬……擬畢,仍送司禮監呈御覽,請旨批紅發落。」
(毎日の奏文書は御前から発下され、司礼監を通じて内閣に送られ票擬される……票擬が終われば、再び司礼監に送り、御覧に供して、聖旨による批紅と発落を請う。)
——李東陽等纂修『大明會典』巻二百十二〈內閣〉(万暦朝重修本、中華書局影印本、1989年、第1052頁)
このように、批紅は行政命令が効力を生じるための不可欠な儀式であり、法的拘束力を持つ最終判断であった。
(2)宦官による代行とその弊害
しかし、多くの皇帝が政務を怠ったことから、司礼監の宦官が「代批紅」を行うことが慣例化した。『明史』巻三百五〈魏忠賢伝〉には、その権勢の極みが記されている:
「忠賢亦時時稱詔旨行之,內閣票擬,莫敢異同。」
(忠賢もまたしばしば詔旨を称してこれを施行した。内閣の票擬に対し、誰も異論を唱える者はいなかった。)
——張廷玉等撰『明史』巻三百五〈魏忠賢伝〉(中華書局点校本、1974年、第7823頁)
この記述は、本来皇帝専属の権限である批紅が宦官に掌握され、内閣すらその意向に逆らえなくなった実態を示しており、制度の歪みが政治腐敗を招いたことを物語っている。
票擬と批紅の緊張関係:万暦中期の事例
票擬と批紅の連携が断絶した際、行政は深刻な麻痺をきたした。万暦帝が皇太子問題(国本論争)を巡り、長期間にわたり奏章を留中(宮中に留め置く)した事例が典型である。『明神宗實錄』巻三百六十五には次のように記録されている:
「自是章奏留中,動經數歲,閣臣屢以為言,上皆不省。中外惶惑,莫知所為。」
(このとき以来、章奏が宮中に留め置かれ、しばしば数年にわたった。閣臣が度々これについて言上したが、皇上はいずれも取り合わなかった。朝廷・地方ともに動揺し、どうしてよいか分からなかった。)
——『明神宗實錄』巻三百六十五(中央研究院歴史語言研究所校印本、1962年、第6943頁)
この記述は、皇帝が批紅を拒否することで、内閣の票擬が無意味となり、国家機能が停止するという制度的脆弱性を露呈している。
制度の終焉と歴史的意義
明末には、宦官専横と内閣の権威低下により、票擬・批紅制度は形骸化した。崇禎帝は即位後、魏忠賢を粛清して宦官勢力を一掃し、内閣中心の政治を復活させようとしたが、既に国家体制は疲弊しており、制度の再建は果たせなかった。清朝に入ると、軍機処の設置と密折制度の発達により、票擬・批紅の形式は廃れた。
この制度は、専制君主制の中で如何にして日常政務を処理するかという課題に対する、中国史上稀有な制度的解決策であり、内閣・宦官・皇帝の三者間の権力均衡を保つ試みとして、政治制度史において高い評価を受けるに値する。
結語
明朝の「票擬」と「批紅」は、単なる文書処理手続きではなく、国家権力の分配と制約を図る精緻な制度設計であった。その運用は、皇帝の政治参加度に大きく依存し、安定時には行政の合理化に寄与したが、君主の放漫や宦官の台頭によって容易に歪められた。