明代(1368–1644)において制度化された科挙制度は、国家官僚の選抜手段として極めて重要な役割を果たした。特にその中核をなす「八股文」(はちこぶん)は、一定の形式に従って四書五経の内容を解釈・展開する文体であり、後世においてしばしば「思想の自由を抑圧するもの」と批判されてきた。しかし、この見方は一面的である可能性がある。
八股文の構造と制度的機能
(1)形式的制約の制度的根拠
八股文は、「破題」「承題」「起講」「入手」「起股」「中股」「後股」「束股」という八つの段階から構成され、それぞれに厳格な文体・語彙・論理展開が求められた。これは単なる文学的技巧ではなく、儒教経典への忠実な理解と、それに基づく道徳的判断力を測るための試験方法であった。
『明史』巻七十〈選挙志二〉には、科挙の基本方針として次のように記されている:
「專取四子書及《易》《書》《詩》《春秋》《禮記》五經命題。」
(『明史』巻七十、中華書局点校本、1974年、頁1690)
このように、試験範囲は朱子学によって注釈された四書と五経に限定されており、他の学説や独自解釈は原則として排除される仕組みとなっていた。
(2)制度的意義:公平性と統一性の確保
八股文の形式的制約は、逆説的に言えば、出身地・家柄・人脈によらず、客観的な評価基準を提供するものでもあった。ただし、この「公平性」はあくまで制度設計上の理念であり、実際には地域格差や教育機会の不均等が存在した。とはいえ、形式の統一は、全国規模での比較可能性を確保する上で不可欠であった。
八股文と思想の関係:抑圧か、それとも訓練か
(1)思想の画一化への懸念:顧炎武の激烈な批判
明末清初の思想家・顧炎武(1613–1682)は、八股文を痛烈に批判した代表的人物である。その著『日知録』巻十六「擬題」には、次のような有名な一節がある:
「八股之害,等於焚書;而敗壞人材,有甚於咸陽之郊所坑者。」
(顧炎武『日知録集釋』巻十六、上海古籍出版社、2006年、頁923)
(訳:八股文の害は、秦の焚書に匹敵する。そして人材を腐敗させる度合いは、咸陽郊外で坑殺された儒生よりも甚だしい。)
この比喩は、八股文が知識人の思考を閉塞させ、国家の将来を危うくすると見る顧炎武の危機感を如実に示している。
(2)思想訓練としての側面:戴震の考証学的視座
一方で、清代の考証学者・戴震(1724–1777)は、八股文そのものを直接肯定はしなかったものの、経典解釈の精密化を通じて思想の深化を図る姿勢を示した。彼は『孟子字義疏證』において、程朱理学の「理」概念が現実の人間感情を抑圧すると批判し、次のように述べている:
「酷吏以法殺人,後儒以理殺人。」
(戴震『孟子字義疏證』序、中華書局、1961年、頁1)
(訳:苛烈な役人が法律で人を殺すが、後世の儒者は「理」によって人を殺す。)
この発言は、八股文が依拠する朱子学的イデオロギーそのものが、一種の思想的暴力となり得ることを示唆しており、八股文の問題を制度的・哲学的両面から捉える視座を提供する。
同時代人の多様な評価
(1)制度擁護の立場:張居正の学政改革
万暦年間の首輔・張居正(1525–1582)は、科挙制度の維持を前提としつつ、空疎な文風を戒め、実学重視の方向へと導こうとした。その『張太岳集』巻三十五所収「請申旧章飭學政疏」には、次のようにある:
「夫士惟務實,乃能應務。今士習浮靡,務為雕蟲之技,而不究聖賢之微旨。」
(張居正『張太岳集』巻三十五、上海古籍出版社、1984年、頁412)
(訳:士人は実務を重んじてこそ、国事に応えることができる。ところが今日の士人の風習は軽薄で、虫の彫刻のような技巧にのみ務め、聖賢の奥深い教えを探究しようとしない。)
張居正は八股文そのものを否定せず、むしろその内容を「実学」に近づけるよう改革を図ったのである。
(2)根本的批判:黄宗羲の制度論
明末清初の思想家・黄宗羲(1610–1695)は、『明夷待訪録』において科挙制度全体を根源的に問い直した。その「取士下」篇には次のように記されている:
「科擧之弊,未有甚於今日者也。士之耽於場屋者,未嘗一日從事於聖賢之學。」
(黄宗羲『明夷待訪録』「取士下」、中華書局、1981年、頁45)
(訳:科挙の弊害が、今日ほど甚だしい時代はない。科挙試験に執着する士人は、一日たりとも聖賢の学問に従事したことがない。)
黄宗羲は、八股文が形式主義に陥り、真の儒学的精神を喪失させたと断じており、思想的創造性の窒息を強く憂慮している。
総合的考察:「抑圧」と「訓練」の両義性
以上のように、八股文に対する評価は、時代・立場・目的によって大きく異なる。単純に「思想を扼殺した」と断定するのは早計である。むしろ、八股文は以下の二つの側面を併せ持つ複合的制度であったと見るべきであろう。
- 統制装置としての側面:国家権力が朱子学を正統イデオロギーとして普及・維持するために、異端的思想を排除するフィルターとして機能した。
- 修養訓練としての側面:士人が経典に親しみ、論理的構成力・倫理的判断力を鍛えるための教育的枠組みとして作用した。
特に注目すべきは、顧炎武や黄宗羲といった批判者ですら、「聖賢の微旨」や「聖賢之學」 を理想として掲げており、完全な思想自由を主張していたわけではない点である。彼らが批判したのは、「形式に拘泥し、内容を忘れた八股文」であって、経典解釈自体を否定したものではない。
したがって、「八股文=思想抑圧」という図式は、歴史的現実の複雑さを過度に単純化したものである。むしろ、八股文は「制約の中での創造」を可能にする一種の「知的ゲーム」であり、その内部においても、優れた士人は独自の解釈や微妙なニュアンスを織り込む余地を持っていたのである。
結論
明代の八股文は、確かに形式的制約が厳しく、異端的思想の表明を困難にしたという点で、思想の自由を制限する側面を持っていた。しかし、同時にそれは士人の倫理的・知的修養を促す制度でもあり、多くの知識人がその中で自己形成を遂げてきた。