鄭和が西洋に下った真の目的とは何だったのか?

· 大明帝国の興亡

明代初期、永楽帝(在位:1402–1424年)の命により、宦官・鄭和が率いる大規模な航海団が七度にわたり「西洋」(当時の中国におけるインド洋周辺地域を指す)へ派遣された。この一連の遠征は「鄭和下西洋」として知られ、世界史上でも類を見ない国家主導の大航海事業である。従来、「朝貢外交の拡大」「海上交易の促進」「海賊掃討」などがその目的として挙げられてきたが、近年の研究では、それらに加えて明王朝の正統性確立や建文帝捜索説など、複合的な政治的・戦略的目的が存在したことが明らかになっている。


一、建文帝捜索説:内政的不安定要素の排除

1.1 永楽帝即位の経緯とその正統性問題

永楽帝(朱棣)は、父・洪武帝(太祖)の第四子でありながら、甥である建文帝(朱允炆)を倒して帝位に就いた。この過程において、建文帝は南京陥落時に焼失した宮殿から姿を消しており、生死不明の状態が続いていた。永楽帝にとって、建文帝が海外に逃れて反乱勢力と結びつく可能性は常に脅威であった。

『明史』巻三百四〈宦官伝・鄭和伝〉には次のように記されている:

「成祖疑惠帝亡海外,欲蹤跡之。且欲耀兵異域,示中國富強。」
(『明史』巻304)

この記述は、鄭和の航海目的が「建文帝の行方を追うこと」と「外国に兵力を誇示し、中国の富強を示すこと」の二点にあることを明確に示している。ここでの「惠帝」は建文帝の別称であり、「蹤跡之」はその足取りを追うことを意味する。

1.2 建文帝生存説とその影響

当時の中国社会では、建文帝が東南アジアあるいはインド方面に逃れたという噂が広く流布していた。例えば、黄省曾が著した『西洋朝貢典録』にも、建文帝の消息に関する民間伝承が収録されており、朝廷がこれを無視できなかった事情が窺える。鄭和艦隊がマラッカ、スマトラ、セイロン(スリランカ)、さらにはアラビア半島まで到達した背景には、こうした情報収集の必要性があったと考えられる。


二、朝貢体制の再編と中華秩序の拡張

2.1 明初の対外政策と「礼」の理念

明王朝は、元朝の崩壊後、新たに「華夷秩序」を構築しようとした。その核心は「朝貢制度」であり、諸外国が明皇帝に「礼」を尽くすことで、自国の正統性と安全保障を保証されるという相互関係であった。鄭和の航海は、この秩序を海洋方面へ積極的に拡張する手段として機能した。

『明実録・太宗実録』永楽三年九月条には、鄭和第一回航海出発直後の詔勅が記録されている:

「今遣使往諭諸番國,使其知朕懷柔之意。凡番夷入貢,皆厚待之。」
(『明太宗実録』巻46)

この詔勅は、永楽帝が「懐柔」(他者を優しく扱い、服属させる)という儒教的統治理念に基づき、諸外国に対して友好を示しながらも、同時に「厚待」を通じて朝貢関係を強化しようとしていたことを示している。

2.2 実際の朝貢国数の増加

鄭和の航海によって、マラッカ、コチン(インド南西部)、ホルムズ(ペルシャ湾)など数十か国が明に朝貢を開始した。特にマラッカは、鄭和艦隊の中継基地として整備され、その後の東南アジアにおける明の影響力拡大に大きく貢献した。費信が著した『星槎勝覧』には、各国が「天朝」への敬意を表して使者を送った様子が詳細に描写されている。

「其王感慕聖化,遣使齎金葉表文,隨寶船來朝。」
(『星槎勝覧』上巻・マラッカ国)

この記述は、現地君主が「聖化」(皇帝の徳による教化)に感化され、自発的に朝貢に赴いたとする公式な叙述であり、明の宣伝的側面も含むが、実際に多くの国が朝貢関係に入った事実は否定できない。


三、経済的利益と海上交易の掌握

3.1 公式交易(勘合貿易)の拡大

鄭和艦隊は単なる外交使節団ではなく、大量の商品(絹、磁器、銅銭など)を積載し、香料、宝石、薬品、珍獣などを引き換えにしていた。これは「朝貢貿易」として行われ、形式的には「献上-下賜」の形を取っていたが、実質的には国家間の物々交換である。

馬歓が著した『瀛涯勝覧』には、スマトラ島北部のアチェ(蘇門答剌国)との交易について次のように記されている:

「其國出胡椒,每官船至,則以貨易之。歸日,滿載而還。」
(『瀛涯勝覧』・蘇門答剌国)

この記述は、鄭和艦隊が現地の特産品(ここでは胡椒)を「貨」(中国製品)と交換し、帰路には満載して戻ったことを示しており、経済的動機の存在を裏付けている。

3.2 民間海商の統制と海禁政策の補完

明初には「海禁令」が敷かれ、民間の海外渡航・交易が厳しく禁止されていた。しかし、国家が直接交易を行う「宝船貿易」は例外として許可されていた。鄭和の航海は、こうした政策の下で、国家が海上交易の利益を独占するための装置としても機能した。

『明史』食貨志には次のようにある:

「永楽時、雖嚴海禁,然遣中使齎敕往諸番,市其土物。」
(『明史』巻78)

この記述は、「海禁」が厳格に実施されていたにもかかわらず、皇帝の特使(中使=宦官)が外国に赴いて「土物」(現地産品)を購入していたことを示しており、国家による交易独占の実態を反映している。


四、軍事的威圧と海上安全の確保

4.1 海賊・陳祖義の討伐

鄭和艦隊は平和的使命のみならず、必要に応じて武力を行使した。最も著名な例が、スマトラ島近海で活動していた海賊・陳祖義の討伐である。陳は数千人の手下を擁し、往来する貿易船を襲撃していた。

『明史』鄭和伝には次のように記されている:

「有海寇陳祖義,剽掠海上,和設計擒之,獻俘京師。」
(『明史』巻304)

この出来事は、鄭和艦隊が単なる外交使節ではなく、海上の治安維持を担う「海軍」としての側面も有していたことを示している。

4.2 セイロン遠征と仏教国への圧力

さらに、セイロン(スリランカ)においても、現地国王アラケスワラが鄭和一行を襲撃したため、鄭和は逆にこれを奇襲して捕虜とした。この事件は『明実録』にも記録されており、明の武威を示す重要な事例である。

「錫蘭山王亞烈苦奈兒負固不恭,誘和至國,欲害之。和覺其謀,遂勒兵攻破其城,生擒亞烈苦奈兒及其妻子。」
(『明太宗実録』巻134)

この記述は、鄭和が単なる使者ではなく、状況に応じて迅速に軍事行動を取る能力を持っていたことを示しており、「耀兵異域」(外国に兵力を誇示する)という目的が現実的に実行された例である。


五、文化・宗教的動機:イスラームと仏教の尊重

5.1 鄭和の個人的信仰と航海の正当化

鄭和自身はムスリム(回族)出身であり、祖父・父ともにメッカ巡礼(ハッジ)を果たしたと伝えられる。そのため、彼の航海にはイスラーム世界との交流促進という側面もあった。一方で、明王朝は仏教を重視しており、鄭和も航海中に仏教寺院を建立したり、碑文を残したりしている。

例えば、彼が1413年に建立した「婁東劉家港天妃宮石刻通番事蹟碑」(通称:劉家港碑)には次のようにある:

「常奉命統率官校旗軍數萬人,乘巨舶百餘艘,齎幣往諸番國,開讀賞賜。所至敷宣恩信,海道由是而清寧焉。」

この碑文は、鄭和自身が自らの功績を後世に残すために建立したものであり、「恩信」(皇帝の恩恵と信義)を広め、結果として「海道」が平穏になったと主張している。ここには、宗教的・道徳的正当性を強調する意図が込められている。

また、鞏珍の『西洋番国志』序文には、航海の成功が「天妃(媽祖)の神助」によるものだと記されており、航海の危険性を神仏の加護によって克服したとする当時の認識が反映されている。


結論

以上のように、鄭和下西洋の目的は単一ではなく、以下の複合的要因から構成されていた:

  1. 建文帝捜索:内政的不安定要素の除去(『明史』)
  2. 朝貢体制の拡張:中華秩序の海洋への展開(『明実録』『星槎勝覧』)
  3. 経済的利益の獲得:国家独占交易の実施(『瀛涯勝覧』『明史』食貨志)
  4. 軍事的威圧と治安維持:海賊討伐・反抗勢力の制圧(『明史』『明実録』)
  5. 文化的・宗教的交流:イスラーム・仏教・媽祖信仰の尊重(劉家港碑、『西洋番国志』)

これらの目的は互いに矛盾せず、むしろ相乗効果をもたらした。永楽帝の治世下において、鄭和の航海は「文」と「武」、「経済」と「外交」、「信仰」と「戦略」を統合した、前代未聞の国家プロジェクトだったのである。その後、宣徳帝による第七回航海(1431–1433年)を最後に下西洋は中止され、明は内向きの政策へ転じていくが、その短い期間に達成された成果は、東アジアからインド洋に至る広範な地域における国際秩序に深い影響を及ぼした。