漢代軍隊の編成と戦闘力はいかなるものであったか?

· 漢の時代

漢代(前202年~後220年)は中国史上において極めて重要な王朝であり、その軍事制度は秦代を継承しつつも独自の発展を遂げた。特に前漢(西漢)期における対匈奴戦争や、後漢(東漢)期における内乱鎮圧・辺境防衛など、多様な軍事活動を通じてその編成および戦闘力が試された。

漢代軍隊の基本編成構造

(1)中央軍と地方軍の二元体制

漢代の軍隊は、大きく「中央軍」と「地方軍」に分けられる。中央軍は皇帝直属の精鋭部隊であり、主に京師(長安または洛陽)を守備する役割を担った。一方、地方軍は郡国(各地方行政単位)に配置され、内乱鎮圧や外敵防衛を任務とした。

『漢書・百官公卿表上』には次のように記されている:

「郎中令掌宮殿掖門,衛尉掌宮門屯兵,中尉掌徼循京師。」
(郎中令は宮殿の掖門を掌り、衛尉は宮門の屯兵を掌り、中尉は京師の巡察を掌る。)

この記述から、中央軍は宮殿警備(郎中令・衛尉)と首都警備(中尉)に分かれており、それぞれ異なる指揮系統を持っていたことがわかる。

(2)軍制の階層的構造:伍・什・隊・官・曲・部・軍

漢代軍隊の最小単位は「伍(ご)」であり、5名で構成される。これを基本として、以下のような階層的編成が存在した:

この編成体系は、『後漢書・百官志』に明確に記載されている:

「部有校尉一人、軍司馬一人。曲有軍候一人。隊有隊長一人。什有什長、伍有伍長。」
(部には校尉一人と軍司馬一人あり、曲には軍候一人あり、隊には隊長一人あり、什には什長が、伍には伍長がいる。)

このような細分化された指揮体系により、命令の伝達が迅速かつ正確に行われ、大規模な作戦行動にも柔軟に対応できたと考えられる。

兵士の構成と徴兵制度

(1)徴兵制(更卒・正卒・戍卒)

漢代では、原則として23歳以上の男子に兵役義務が課せられていた。これは「更卒(こうそつ)」「正卒(せいそつ)」「戍卒(じょそつ)」の三形態に分けられる。

この制度の根拠となる年齢規定については、如淳が『漢書・高帝紀』の注釈で引用した漢律に次のようにある:

「民年二十三傅之疋役,五十六免。」
(民は23歳で兵役に付き、56歳で免除される。)

この制度により、全国民が一定期間軍事訓練を受けることとなり、潜在的な動員兵力が常に確保されていた。

(2)騎兵の重要性と専門部隊

前漢武帝期以降、匈奴との戦いにおいて騎兵の重要性が急増した。これに伴い、漢朝は大量の戦馬を整備し、専門の騎兵部隊を編成した。

『史記・衛將軍驃騎列傳』には次のように記される:

「漢使驃騎將軍去病將萬騎出隴西,過焉支山千餘里,擊匈奴。」
(漢は驃騎将軍霍去病に命じ、万騎を率いて隴西を出発し、焉支山を越えて千余里進撃し、匈奴を撃った。)

この記述は、紀元前121年の河西の戦いにおける霍去病の遠征を描写したものであり、当時の漢軍が機動力に優れた大規模騎兵部隊を運用できていたことを示している。

また、『居延漢簡』(甘粛省居延地区で出土した前漢末~後漢初の木簡群)には、戍卒の名簿・勤務記録・武器管理台帳などが含まれており、実際の兵士の出身地・年齢・職務内容が詳細に記録されている。例えば、「戍卒張掖郡觻得県王忠年廿五」(居延漢簡・簡番号127.29)といった記載があり、地方出身者が辺境に配属されていた実態が確認できる。

訓練・装備・補給体制

(1)厳格な訓練制度

漢代の兵士は、弓術・剣術・槍術・陣形訓練などを定期的に受けた。特に弩(クロスボウ)の使用は高度な技術を要し、熟練を要した。

『漢書・晁錯伝』には、匈奴との戦いにおける漢軍の優位性について次のように述べられている:

「勁弩長戟,射疏及遠,堅甲利刃,長短相雜。」
(強力な弩と長い戟を持ち、遠距離まで射撃でき、堅固な鎧と鋭い刃物を長短混ぜて用いる。)

この記述は、漢軍が複合的な兵器体系と高度な戦術を備えていたことを示しており、個々の兵士の技能だけでなく、集団戦術の洗練度も高かったと推測される。

(2)補給と後方支援

大規模遠征においては、補給線の維持が勝敗を左右した。武帝期の西域遠征では、数万人規模の兵糧・武器・馬匹を運搬するため、専門の輸送部隊(「輜重隊」)が編成された。

『史記・平準書』には次のようにある:

「轉漕甚遼遠,自山東咸被其勞,費以億計。」
(漕運は極めて遠方に及び、山東から来た者すべてがその労苦を受け、費用は億単位に達した。)

この記述は、軍事行動の裏に莫大な国家財政が投入されていたことを示しており、漢朝の戦争遂行能力が経済基盤に強く依拠していたことを意味する。

実戦における戦闘力評価

(1)対匈奴戦争における戦果

前漢武帝期(前141~前87年)には、衛青・霍去病らの将軍が率いる漢軍が、これまで優勢だった匈奴を連続して撃破し、河西回廊を掌握した。これは、漢軍の機動力・指揮統制・後方支援が匈奴を上回っていた証左である。

『史記・衛將軍驃騎列傳』には、元狩四年(前119年)の漠北の戦いについて次のように記されている:

「大將軍衛青、驃騎將軍去病各將五萬騎,出塞二千餘里,斬首虜八九萬級。」
(大将軍衛青と驃騎将軍霍去病がそれぞれ5万騎を率いて塞外2,000余里に出撃し、8~9万の首級を挙げた。)

この数字には誇張の可能性もあるが、大規模な騎兵部隊による深部作戦が成功裏に遂行されたことは確実であり、漢軍の戦闘力がピークに達していたことを示す。

(2)後漢期の内乱対応と戦力低下

後漢に入ると、中央軍の質が低下し、地方豪族や義勇軍(例:黄巾賊討伐における曹操・孫堅・劉備ら)が軍事的主導権を握るようになる。これは、徴兵制の機能不全と財政的疲弊によるものとされる。

『後漢書・皇甫嵩伝』には、黄巾の乱(184年)における政府軍の状況が記されている:

「州郡失守,長吏多逃亡。」
(州郡は拠点を失い、多くの長吏が逃亡した。)

この記述は、後漢末期の正規軍が組織的戦闘力を喪失していたことを示しており、漢代軍隊の戦闘力が時代とともに変動していたことを裏付ける。

結論

漢代軍隊は、初期において高度に組織化された徴兵制・階層的指揮体系・複合兵器戦術を備え、特に前漢武帝期には卓越した戦闘力を発揮した。しかし、長期的な戦争負担・財政悪化・社会構造の変化により、後漢期にはその質が著しく低下し、最終的には私兵集団や地方軍閥に取って代わられた。漢代軍制の盛衰は、中国古代国家の軍事・政治・経済の相互関係を理解する上で極めて重要な事例である。