漢代の法律制度はどれほど厳格だったのか?

· 漢の時代

漢代(前206年-後220年)は、中国史上において律令制度が体系化され、後の王朝に深遠な影響を与えた重要な時代である。秦の苛政を反省しつつも、その法制度を継承・修正した漢代の法律体系は、秩序維持と統治効率を重視する点で極めて厳格であった。


一、漢代法制度の基本的性格

1. 秦律の継承と緩和

漢初においては、秦の「繁法峻刑」に対する反発から、「約法三章」という簡素な法規が制定された。これは一時的な措置であり、国家体制の安定とともに再び詳細な律令が整備され、実質的には秦律の多くが継承された。

「與父老約,法三章耳:殺人者死,傷人及盜抵罪。餘悉除去秦法。」
——司馬遷『史記』巻八〈高祖本紀〉

この「約法三章」は民心を安定させるための一時的方策にすぎず、後に蕭何が「九章律」を制定し、秦律の六篇に「戸律」「興律」「厩律」を加えて法体系を拡充した(『晋書』刑法志)。これにより、行政・経済・軍事に至るまで広範な領域が法で統制されるようになった。


二、刑法の厳格性と連坐制

1. 連坐(れんざ)制度の適用

漢代の刑法は、個人の犯罪に対して本人だけでなく、その家族や同産(兄弟姉妹)にも責任を問う連坐制を採用していた。特に「大逆無道」などの重罪には、一族皆殺し(族誅)が科せられた。

「大逆無道,父母妻子同產皆棄市。」
——班固『漢書』巻四〈文帝紀〉(前176年詔)

この文帝四年の詔は、連坐の対象を「父母・妻・子・同産(兄弟姉妹)」に限定し、それ以前の無制限な族誅を若干緩和したものであるが、それでも広範な家族が処刑される点で極めて厳格である。賈誼はこの制度に対し、「此非所以勸善也」と批判している(『漢書』巻四十八〈賈誼伝〉)。

2. 死刑・肉刑・徒刑の多様化

漢代初期には斬首・磔・族誅などの死刑が頻繁に執行された。また、劓(鼻を削ぐ)、黥(額に墨を入れる)、宮刑(去勢)といった肉刑も日常的に用いられていた。呂后二年(前186年)に頒布された『二年律令』(張家山漢簡)には、以下のような徒刑が詳細に規定されている。

「髠鉗城旦舂」「完城旦舂」「鬼薪白粲」「司寇」「罰作復作」
——『張家山漢墓竹簡〔二四七号墓〕』(文物出版社、2001年)

これらの刑罰は、性別・罪状・身分に応じて強制労働の内容と期間が細分化されており、たとえば「髠鉗城旦舂」は男性が城壁修築、女性が米搗きに従事する6年間の刑とされる(『奏讞書』簡184参照)。このように、漢代の刑罰体系は高度に制度化・階層化されていた。


三、告発制度と監視社会の形成

1. 告発の奨励と報奨

漢代では、犯罪の告発(「告」)が制度的に奨励された。ただし、爵位を与えるという記述は秦代に特有であり、漢代では金銭や免罪による報奨が主流であった。

「募民能告奴婢盗主物者,百錢賞。」
——『二年律令・捕律』(簡173)

この条文は、奴婢が主人の財物を盗んだ場合、それを告発した者に100銭を与えることを定めており、民衆相互監視の仕組みが日常レベルで浸透していたことを示す。謀反や詐偽などの重大犯罪については、密告が特に奨励され、成功すれば官吏の介入なしに直ちに処罰が行われることもあった。


四、司法制度と裁判の厳格性

1. 廷尉の役割と「天下之平」

中央では「廷尉」が最高司法機関として機能し、全国の重大事件を裁いた。廷尉は「天下の秤(はかり)」とされ、その公平性が強く求められた。

「廷尉,天下之平也,若無其人,則冤死者多矣。」
——范曄『後漢書』巻五十六〈郭躬伝〉

この言葉は、東漢の法吏・郭躬が廷尉の重要性を述べたものであり、裁判官の資質が民衆の生死に直結することを強調している。実際、張湯・杜周ら「酷吏」と呼ばれる官僚は、皇帝の意図に沿って厳罰主義を貫き、しばしば法を越えて処罰を行った(『漢書』酷吏伝)。

2. 上訴と覆審の限界

漢代には、判決に不服がある場合、郡から中央への上訴(「告訴」)や、最終的には皇帝への直訴(「闕下上書」)が認められていた。しかし、これらは形式上の救済手段にとどまり、実際に判決が覆ることは稀であった。特に武帝以降、治安維持が優先され、司法の独立性は著しく制限された。


五、思想統制と「春秋決獄」

1. 動機重視の裁判原理

武帝の時代以降、董仲舒らによって「春秋決獄」(しゅんじゅうけつごく)という裁判方法が導入された。これは、『春秋』の倫理的原理に基づいて事件を裁くものであり、行為の結果よりも「志(こころざし)」を重視した。

「《春秋》之聽獄也,必本其事而原其志。志邪者不待成,首惡者罪特重,本直者其論輕。」
——杜佑『通典』巻六十九〈禮典・凶禮〉(李賢注引『春秋決獄』)

この原則によれば、「志が邪悪であれば、犯罪が未遂に終わったとしても処罰の対象となる」とされ、思想そのものが法的評価の対象となった。これは、法律の厳格性を超えて、思想面での統制を法制化する装置ともいえる。


六、結論:厳格さの功罪

漢代の法律制度は、国家統合と秩序維持のために極めて厳格に設計されていた。秦律を継承しつつも、文帝期の肉刑廃止(前167年)や儒家的倫理の導入を通じて「仁政」の外衣を纏ったものの、実態としては連坐・密告・思想裁判など、民衆に対する抑圧的側面が強く残っていた。