なぜ漢武帝がシルクロードの雛形を一手に築いたと言われるのか?

· 漢の時代

シルクロード(絹の道)は、古代中国と中央アジア、さらにはヨーロッパを結ぶ交易・文化交流の動脈として知られる。その起源は前漢時代に遡り、特に漢武帝(在位:紀元前141年~紀元前87年)の積極的な対外政策によってその基礎が築かれたと広く評価されている。


一、匈奴対策としての大月氏連携構想

1.1 匈奴の脅威と漢朝の戦略的転換

前漢初期、漢王朝は北方の遊牧民族・匈奴に対して防御的姿勢を取っていた。しかし、漢武帝は即位後、この消極的方針を転換し、積極的に匈奴に対抗する戦略を採用した。その一環として、匈奴の西方に位置する大月氏(だいげっし)との連携を図ることを企図したのである。

『漢書』巻六十一〈張騫伝〉には次のように記されている:

「初,匈奴破月氏王,以其頭為飲器。月氏遁逃,而常怨仇匈奴,無與共擊之者。漢方欲事滅胡,聞此,欲通使。」
(訳:当初、匈奴が月氏王を破り、その頭蓋骨を酒器とした。月氏は逃亡し、常に匈奴に怨みを抱いていたが、共に攻撃する相手がいなかった。漢はちょうど胡(匈奴)を滅ぼそうとしており、この話を聞き、使者を派遣しようとした。)

この記述から明らかなように、漢武帝は大月氏との同盟を通じて匈奴を挟撃する「東西挟撃戦略」を立案した。この外交的試みこそ、後にシルクロードの開拓へとつながる第一歩であった。

1.2 張騫の西域派遣

この構想に基づき、建元2年(紀元前139年)、漢武帝は郎中(ろうちゅう)の張騫(ちょうけん)を大月氏への使者として西域へ派遣した。張騫の旅は困難を極め、途中で匈奴に捕らえられ10年近く拘束されたが、最終的に大月氏に到達した。しかしながら、大月氏はすでにアム川流域に定住しており、匈奴への復讐の意欲は薄れていたため、同盟は成立しなかった。

それでも、張騫は帰還時に西域諸国の地理・風俗・物産について詳細な報告を提出し、漢武帝の西域認識を大きく変えた。『史記』巻百二十三〈大宛列伝〉には次のように記されている:

「騫身所至者大宛、大月氏、大夏、康居,而其旁大國五六,具為天子言之。」
(訳:張騫が自ら足を運んだ国は大宛、大月氏、大夏、康居であり、その周辺の大国五、六ヶ国についても、天子(漢武帝)に詳しく語った。)

この情報は、漢朝が西域に対する軍事・外交・経済的関心を高める契機となった。


二、西域経営と交易路の整備

2.1 軍事的拡張による交通路確保

張騫の報告を受け、漢武帝は西域への関与を強化した。特に、良馬の産地として知られた大宛(フェルガナ)への遠征(大宛征伐)は、交易路確保の象徴的出来事である。太初元年(紀元前104年)から太初4年(紀元前101年)にかけて行われたこの遠征は、当初は失敗に終わったが、再遠征により大宛王を降伏させ、良馬(汗血馬)の献上を勝ち取った。

『漢書』巻六十一〈張騫李広利伝〉にはこうある:

「宛貴人相與謀曰:『漢所為攻宛,以王毋寡藏善馬而匿不肯與漢使。……』乃相與殺毋寡,遣人獻馬三千匹,糧食給軍。」
(訳:大宛の貴人たちが共に謀って言った、「漢が大宛を攻めるのは、王毋寡が良馬を隠して漢の使者に与えなかったためだ……」。そこで共に毋寡を殺し、使者を送って馬三千匹と軍糧を献上した。)

この勝利により、漢は塔里木盆地周辺の諸国に影響力を及ぼすようになり、交易路の安全確保が可能となった。

2.2 敦煌・玉門関の設置と屯田制度

漢武帝は、西域との連絡を安定させるため、河西四郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)を設置し、さらに玉門関・陽関といった関所を建設した。これらの拠点は、商人や使節の通行を管理するとともに、軍事防衛の要としても機能した。

また、西域各地に屯田(とんでん)を設けて兵士が農耕を行い、自給自足体制を整えることで、長期的な駐留と補給を可能にした。『漢書』巻九十六上〈西域伝上〉には次のように記される:

「自敦煌西至鹽澤,往往起亭,而輪台、渠犂皆有田卒數百人,置使者校尉領護,以給使外國者。」
(訳:敦煌から西の塩沢(ロプノール)に至るまで、しばしば駅亭(宿駅)が設けられ、輪台・渠犂にはそれぞれ数百人の屯田兵がおり、使者校尉がこれを統括し、外国に使わされる者たちを支援していた。)

このようなインフラ整備は、シルクロードの実質的な流通基盤を形成した。


三、文化・経済交流の促進

3.1 絹・鉄器の西伝と西方物産の流入

漢武帝の西域政策は、単なる軍事・外交目的にとどまらず、経済的利益も追求していた。中国の絹織物や鉄製品は西域諸国で高い評価を受け、逆に葡萄(ぶどう)、苜蓿(むくそく=アルファルファ)、胡麻(ごま)、毛織物などが中国に導入された。

『史記』巻百二十三〈大宛列伝〉にはこう記されている:

「宛左右以蒲陶為酒,富人藏酒至萬餘石,久者至數十歲不敗。俗嗜酒,馬嗜苜蓿。漢使取其實以來,於是天子始種苜蓿、蒲陶於離宮館旁,極望。」
(訳:大宛の周辺では葡萄で酒を作り、裕福な者は万余石もの酒を蔵していた。古いものは数十年経っても腐敗しない。当地の風習は酒を好み、馬は苜蓿を好む。漢の使者がその種子を持ち帰ったため、天子(漢武帝)は宮殿の周辺に広く苜蓿と葡萄を植え始めた。)

この記述は、漢武帝の時代にすでに東西間の物産交流が活発に行われていたことを示している。

3.2 宗教・技術・思想の流通の萌芽

さらに、この交易路を通じて、のちに仏教が中国に伝来する地盤も整えられた。また、天文・暦法・音楽などの分野でも、西域からの影響が見られる。漢武帝自身は神仙思想に傾倒していたが、その求道的な姿勢も、異文化への関心を高める一因となった。


四、後世への影響と歴史的評価

漢武帝の西域政策は、短期的には財政的負担を強めたものの、長期的には中国とユーラシア大陸を結ぶ恒久的な交流ルートを確立した。班固が編纂した『漢書』は、この功績を高く評価している。

『漢書』巻六十一には次のように記される:

「然張騫鑿空,其後使往者皆稱博望侯,以為質於外國,外國由此信之。」
(訳:しかし張騫が未踏の地に道を開拓(鑿空)したため、その後に派遣された使者たちは皆、「博望侯」と称され、外国において信用の証とされた。外国はこれにより漢を信頼するようになった。)

「鑿空(さくくう)」という表現は、「未踏の地に道を開く」という意味で、まさにシルクロードの創始を象徴する言葉である。


結論:漢武帝の戦略的ビジョンとシルクロードの誕生

以上のように、漢武帝は匈奴対策の一環として張騫を西域に派遣し、その結果として得られた情報を基に、軍事的・行政的・経済的手段を駆使して西域経営を推し進めた。その過程で整備された交通路・関所・屯田制度は、後のシルクロードの骨格を形成した。したがって、「漢武帝がシルクロードの雛形を一手に築いた」と評価される所以は、決して誇張ではない。