前漢武帝末期に発生した「巫蠱の禍(ふこ の わざわい)」は、中国史上における極めて重大かつ悲劇的な事件として知られている。この事件は、単なる迷信に基づく集団ヒステリーと見なされることもあれば、権力闘争の一環として意図的に仕組まれた政治陰謀であると解釈されることもある。
巫蠱の禍の概要
巫蠱の禍は、紀元前91年頃に前漢の首都長安で勃発した大規模な粛清事件である。中心人物は当時の皇太子・劉据(りゅうきょ)であり、彼は「呪詛(じゅそ)」すなわち「巫蠱(ふこ)」——人形などを使って皇帝を呪う行為——の嫌疑をかけられ、最終的には自害に追い込まれた。この事件により、皇后衛子夫(えいしぶ)をはじめ、多くの皇族・官僚が処刑または自殺に至り、朝廷は一時的に混乱に陥った。
巫蠱とは何か:古代中国における信仰と法的制裁
巫蠱の定義と社会的背景
「巫蠱」とは、古代中国において「巫(ふ)」すなわち祈祷師やシャーマンが、毒虫や人形などを用いて他人を呪い殺すと信じられていた行為である。特に漢代には、これを国家犯罪として厳しく取り締まっていた。『漢書』には、巫蠱に関与した者に対する厳しい処罰が記録されている。例えば、『漢書・武帝紀』には次のようにある:
「坐巫蠱死者,前後凡數萬人。」
(『漢書』巻六〈武帝紀〉)
これは、「巫蠱の罪で処刑された者は、前後を通じておよそ数万人に及んだ」という意味であり、巫蠱が単なる民間信仰ではなく、国家秩序を脅かす重罪と見なされていたことを示している。
また、『漢書・江充伝』には、武帝晩年の精神状態と巫蠱への過敏反応が記されている:
「是時上春秋高,意多所惡,以為左右皆為蠱道祝詛。」
(『漢書』巻四十五〈江充伝〉)
訳せば、「このとき、皇帝(武帝)は年老い、多くのことに猜疑心を抱き、左右の者すべてが蠱道(こどう)によって呪詛していると考えた」とあり、武帝自身の心理的不安が巫蠱摘発の拡大を招いたことが窺える。
政治陰謀としての側面
江充と皇太子劉据の対立
巫蠱の禍の直接的な引き金となったのは、内朝官・江充(こうじゅう)の行動である。江充は武帝の信任を得て、宮中における巫蠱の摘発を命じられた。しかし、彼はその権力を濫用し、皇太子劉据を標的にしたとされる。
『漢書・武五子伝』によれば、江充は太子の宮殿まで捜索に入り、桐で作られた人形を発見したとされる。太子は無実を主張できず、やむなく兵を起こして江充を誅殺した。この経緯は、後に大規模な反乱と見なされ、太子は敗れて自害に至った。
さらに、司馬光の『資治通鑑』は、江充の動機を明確に政治的対立に帰している:
「充素與太子有隙,因是構陷之。」
(『資治通鑑』巻二十二・漢紀十四)
これは、「江充はもとより太子と不和であり、この機会を利用して陥れた」という意味であり、明らかに政治的陰謀の存在を指摘している。
武帝の後継問題と権力構造の変化
武帝は晩年、皇太子劉据の能力に不満を抱いていたという見方もある。一方で、新たな寵臣や外戚勢力(特に李夫人の一族)が台頭しており、皇位継承を巡る暗闘が激化していた。巫蠱の禍は、こうした権力再編の過程で利用された「口実」だった可能性が高い。
『漢書・外戚伝』には、武帝の寵愛を受けた李夫人一族の台頭が記されており、その影響下で江充のような新興官僚が権力を振るう土壌が形成されていたことがわかる。
迷信騒動としての側面
当時の社会心理と集団パニック
一方で、巫蠱の禍を完全に政治陰謀と断定するのは早計である。なぜなら、当時の社会全体が「巫蠱」に対して極度の恐怖を抱いており、それが集団ヒステリーを引き起こしていたからである。
『史記・封禅書』には、武帝が神仙思想や祭祀に熱心であったことが詳細に記されており、超自然的存在に対する信仰が宮廷文化に深く浸透していたことがわかる:
「天子益尊鬼神之事,而方士益貴。」
(『史記』巻二十八〈封禅書〉)
これは、「天子(武帝)はますます鬼神の事に尊崇を寄せ、方士(道教的術士)がますます重んじられた」という意味であり、武帝自身が神秘主義に傾倒していた背景が、巫蠱への過敏反応を助長したと考えられる。
また、前述の『漢書・武帝紀』に見える「坐巫蠱死者,前後凡數萬人」という記述は、単なる政治的計算だけでは説明がつかない規模の粛清であり、社会全体の迷信的パニックが背景にあったことは否定できない。
結論:政治陰謀と迷信騒動の複合的性質
以上より、巫蠱の禍は「政治陰謀」あるいは「迷信騒動」のいずれか一方に還元できるものではない。むしろ、両者が複雑に絡み合った複合的事件と評価すべきである。
- 政治的側面:江充による皇太子への策略、武帝の後継問題、新興官僚と既存皇族の対立。
- 社会的・文化的側面:巫蠱に対する普遍的恐怖、武帝自身の神秘主義的傾向、法制度における巫蠱の重罪化。
これらの要素が相互に作用し、結果として前漢最大の政治危機を引き起こしたのである。後に武帝は自らの過ちを認め、「思子台(ししだい)」を築いて劉据を悼んだと伝えられるが、それは事件の政治的誤謬を象徴するものでもある。