霍去病が24歳で急死した真の原因は何だったのか?

· 漢の時代

前漢武帝時代の名将・霍去病(かく きょびょう)は、わずか24歳という若さで突然この世を去った。彼の早逝は、当時から後世に至るまで多くの謎と推測を呼んできた。


一、霍去病の生涯と軍功の概略

霍去病は西漢武帝の時代(紀元前2世紀後半)に活躍した若き将軍であり、母は衛子夫(後の皇后)の姉・衛少児、父は平陽侯家の下級役人・霍仲孺とされる。しかし実質的には、母方の伯母である衛子夫および舅である大将軍・衛青の庇護のもとで育ち、18歳にして初めて戦場に出陣し、匈奴討伐において数々の奇跡的な勝利を収めた。

『漢書・霍去病伝』には次のように記されている:

「去病以驃騎將軍將萬騎出隴西,有功。天子曰:『票騎將軍去病率師躬將所獲葷粥之士,約輕齎,絕大幕,涉獲章渠……斬首虜八千餘級。』」
(『漢書』巻五十五〈衛青霍去病伝〉)

このように、彼は短期間で匈奴を深く追撃し、河西回廊を確保するなど、漢帝国の北方防衛体制に決定的な貢献を果たした。しかし、元狩6年(紀元前117年)、わずか24歳で薨去(こうきょ)し、武帝は深く悲しみ、「景桓侯」と諡(おくりな)を贈った。


二、正史に記された死因の記述

1. 『漢書』における「病死」の記載

霍去病の死に関して、最も基本的な史料である『漢書』は明確に「病死」と記している。

「元狩六年薨,時年二十四。」
(『漢書』巻五十五)

ただし、ここには具体的な病名や症状は記されていない。これは当時の史書の通例であり、高官や皇族の死因については「薨」「卒」などと簡潔に記すことが一般的であった。

2. 『史記』の記述との比較

司馬遷の『史記』にも霍去病の伝は含まれているが、その記述は『漢書』ほど詳細ではない。『史記・衛将軍驃騎列伝』には次のようにある:

「驃騎將軍自四年後凡六出擊匈奴,斬捕首虜十一萬餘級……然少而侍中,貴不省士。其從軍,天子為遣太官齎數十乘,既還,重車餘棄粱肉,而士有飢者。」
(『史記』巻一一一)

この記述からは、霍去病の性格や生活様式の一端が窺えるが、死因については一切言及していない。したがって、『漢書』が最も主要な一次史料となる。


三、死因に関する諸説とその検証

1. 疾病説(感染症・熱病・過労)

最も自然な解釈は「疾病による死」である。霍去病は18歳から23歳までのわずか5年間に6度も遠征に参加しており、そのうち河西の戦いや漠北の戦いなどは、極寒・乾燥・衛生環境の悪劣な砂漠地帯での長期作戦であった。このような環境下では、以下のような疾患が発症しやすい:

『漢書』の記述から直接の病名は読み取れないが、当時の軍隊における疫病の蔓延は頻繁に記録されている。例えば、『漢書・武帝紀』には:

「元鼎五年,夏四月,大疫。」
(『漢書』巻六)

とあり、国家規模での疫病流行が確認できる。霍去病が最後に出陣したのは元狩4年(紀元前119年)の漠北の戦いで、その後2年間は戦場に出ず、中央で政務にあたっていた。この期間中に何らかの持病が悪化した可能性もある。

2. 水や食糧の汚染による中毒説

近年の研究では、匈奴地域の水源や食糧に重金属(例:ヒ素)が含まれていた可能性が指摘されている。ただし、これは考古学的・地質学的推測にとどまり、古籍には直接の証拠はない。

一方、『漢書』には霍去病が兵士の飢餓を顧みず、自軍の余剰食糧を捨てていたという記述がある(前述)。これは彼が食事管理を軽視していたことを示唆しており、衛生面でのリスクが高かった可能性を裏付ける。

3. 政治的暗殺説(陰謀説)

一部の野史や小説では、霍去病が衛青派と対立し、あるいは武帝の猜疑心を買ったために毒殺されたとする説が存在する。しかし、これを裏付ける一次史料は一切存在しない。

むしろ、『漢書』には武帝が霍去病の死を深く悼み、自ら祁連山を模して墓を作らせたと記されており:

「上悼之,發屬國玄甲軍,陳自長安至茂陵,為冢象祁連山。」
(『漢書』巻五十五)

この記述から、武帝が霍去病を非常に寵愛していたことが明らかであり、暗殺説は史実性に欠けると判断される。

4. 戦傷後遺症説

霍去病は多くの戦闘に参加しており、負傷の可能性は否定できない。しかし、『史記』『漢書』いずれにも負傷に関する記述はなく、また24歳という若さを考えると、戦傷が直接の死因とは考えにくい。


四、当時の医療・衛生状況との関連

前漢時代の医学は『黄帝内経』などの古典が成立しつつあったものの、細菌・ウイルスの概念は存在せず、感染症の治療法は限られていた。特に、遠征中の軍隊では、飲料水の煮沸や排泄物の処理といった基本的な衛生対策さえ不十分だったと考えられる。

『漢書・食貨志』には、軍隊の糧食供給体制についての記述があり、補給線の脆弱さがしばしば問題となっていた:

「轉漕遼遠,士卒饑寒,死者相望。」
(『漢書』巻二十四)

このような環境下では、若くても体力の限界を超えた場合、致死的な疾患に陥ることは十分にあり得る。


五、結論:最もあり得る死因は「過酷な軍務による体力消耗と感染症」

以上を総合すると、霍去病の24歳での急死は、以下の要因が複合的に作用した結果と推定される:

古籍の記述からは「病死」以外の明確な証拠は見出せないため、陰謀説や毒殺説は根拠に乏しい。むしろ、『漢書』が冷静かつ簡潔に「薨」と記していることこそ、自然死であったことを示唆している。

霍去病の早逝は、単なる個人の悲劇ではなく、前漢帝国が北方遊牧民との戦いにおいて払った人的代償の象徴とも言える。彼の軍功は後世に永く語り継がれ、『漢書』の筆者・班固も次のように評している:

「票騎將軍去病,驍勇絕倫,深入匈奴,封狼居胥,禪於姑衍,登臨瀚海,功冠全軍。」
(『漢書』巻五十五)

その輝かしい生涯が、24歳という若さで幕を閉じたことは、中国史上における大きな損失であり、その死因をめぐる考察は、古代戦争・医学・政治の交差点を照らす貴重な手がかりとなるのである。