前漢時代における張騫(ちょうけん)の西域への使節派遣は、中国史上における対外交流の画期的出来事として広く知られている。この歴史的事件は、単なる偶発的な外交行動ではなく、漢武帝(かんぶてい)による明確な戦略的意図に基づく国家政策の一環であったと評価されるべきである。
漢帝国の北方情勢と匈奴問題
匈奴の脅威と漢の初期対応
前漢初期、漢王朝は北方遊牧民族・匈奴(きょうど)の圧力に常にさらされていた。高祖劉邦(りゅうほう)は平城(へいじょう)において匈奴に包囲され、深刻な危機に直面した。『漢書』巻九十四上〈匈奴伝上〉にはその状況が次のように記されている:
「高祖……平城に囲まれ、七日、糧食乏しく……陳平の秘計を用いて、卒に圍を解かれた。」
(『漢書』巻九十四上)
その後、劉敬(婁敬)の建議により、和親政策が採用された。同伝にはこうある:
「婁敬説曰:『……陛下誠能以適長公主妻之……彼知漢女貴,必為閼氏……是為不戰而屈人之兵也。』……乃取家人子名為長公主,妻單于。」
(『漢書』巻九十四上)
このように、漢初の対匈奴政策は防衛的・妥協的であり、国威を損ねる状況が長く続いた。このような背景の下、若くして即位した漢武帝は、積極的な対外政策への転換を図ったのである。
張騫派遣の直接的動機と戦略的背景
大月氏との同盟構想と「断匈奴右臂」
張騫の第一次西域派遣(紀元前138年)の直接的動機は、大月氏(だいげっし)との軍事同盟締結であった。大月氏はかつて河西地方に居住していたが、匈奴に破られ、王の首を「飲器」とされた上で西へ逃れた。この怨念を利用し、東西から匈奴を挟撃する戦略が立案された。
司馬遷の『史記』巻百二十三〈大宛列伝〉はこの経緯を明確に記す:
「匈奴破月氏王,以其頭為飲器。月氏遁逃而常怨仇匈奴,無與共擊之。漢方欲事滅胡,聞此言,因欲通使。道必更匈奴中,乃募能使者。張騫以郎應募。」
(『史記』巻百二十三)
ここで注目すべきは、「漢方欲事滅胡(漢はまさに胡=匈奴を滅ぼさんと欲していた)」という一句であり、張騫の派遣が単なる情報収集や探検ではなく、明確な軍事戦略の一環であることを示している。「飲器」とは酒器の一種であり、後世「酒器」と訳されることもあるが、原文は「飲器」である点に注意を要する。
張騫帰還後の政策展開と戦略的深化
「鑿空」による西域交通の開拓
張騫は第一次派遣において大月氏との同盟には失敗したが、帰還時に西域諸国の地理・風俗・物産に関する詳細な情報を携えており、これが以後の漢の西域政策に決定的影響を与えた。特に、大宛(だいえん)に良馬(汗血馬)がいるという報告は、後に李広利による大宛遠征の契機となった。
班固の『漢書』巻六十一〈張騫李広利伝〉は、張騫の功績を次のように評価する:
「然張騫鑿空,諸國始通於漢矣。」
(『漢書』巻六十一)
「鑿空(そうくう)」とは、「未踏の虚空を穿つ」ことを意味し、文字通り「道なきところに道を開いた」ことを指す。この一語こそ、張騫の使節が単なる個人的冒険ではなく、国家主導の戦略的開拓事業であったことを象徴している。その後、漢の使者・商人が西域に往来するようになり、シルクロードの実質的開通へとつながった。
漢武帝の思想的背景と帝国観
功業志向と「四夷賓服」の理念
漢武帝の西域政策は、軍事的必要性のみならず、儒教的天下観にも支えられていた。彼は董仲舒の建言を受け儒教を国是としつつも、同時に「功業を好み、遠方を経略する」姿勢を鮮明にした。『史記』巻三十〈平準書〉には、当時の財政的負担と批判が記される一方で、その政策の理念的基盤も示されている:
「天子……好功勤遠,四夷賓服……使者相望於道,諸所委輸皆仰給大農……以賜遺外國,厚具以奉之。」
(『史記』巻三十)
また、『史記・大宛列伝』には:
「天子既聞大宛及大夏、安息之屬皆大国……其兵弱,畏戰;又誠得而以義屬之,則廣地萬里,重九譯,致殊俗,威德遍於四海。」
これらの記述から明らかなように、漢武帝は「威徳」によって異民族を服属させ、天下秩序を拡張しようとする理念的ビジョンを有しており、張騫の派遣はその一環として位置づけられる。
結論:戦略的先見性としての張騫派遣
以上検討したように、張騫の西域派遣は、決して偶然の産物でも、一時的な興味本位の行動でもない。それは、匈奴という長期的かつ構造的な脅威に対処するために立案された、高度に計算された地政学的戦略の一環であった。漢武帝は、張騫を通じて得られた情報と人的ネットワークを活用し、徐々に西域への影響力を拡大していった。その結果、シルクロードの開通、文化・経済交流の促進、さらには後漢期における西域都護府の設置へとつながっていく。