なぜ巫蠱の禍は西漢が繁栄から衰退へと転じる転換点と呼ばれるのか?

· 漢の時代

前漢(西漢)は中国史上、特に武帝期にその国力・文化・軍事力を極め、「漢」の名を後世に遺すほどの繁栄を遂げた。しかしながら、その最盛期ともいえる武帝晩年に発生した「巫蠱の禍」(ぶこ の わざわい)は、朝廷内部に深刻な動揺をもたらし、政治的・社会的・経済的基盤を大きく損なった。この事件は単なる宮廷内の陰謀や冤罪事件に留まらず、国家体制全体に及ぼす影響が極めて大きかったため、後世の史家はこれを「西漢由盛転衰の転換点」と評価してきた。

巫蠱の禍の概要と背景

(1)事件の経緯

巫蠱の禍は、紀元前92年から紀元前91年にかけて発生した、呪術(巫蠱)を巡る大規模な政治的粛清事件である。中心人物は、当時皇太子であった劉据(衛太子)であり、江充という近臣の讒言により、皇帝・武帝が太子が呪術で自らを呪っていると疑い、最終的に太子は反乱を起こして敗死するに至った。この事件により、皇后衛子夫、太子一族、および多くの高官・貴族が処刑または自害し、死者数は数万人に達したとされる。

(2)政治的背景:武帝晩年の猜疑心と権力構造の不安定化

武帝は在位54年(前141年~前87年)に及び、その治世前期は積極的な対外政策(匈奴征伐、西域開拓)と内政改革(塩鉄専売、均輸平準法)により国威を振るった。しかし晩年には連年の戦争と奢侈な財政支出により民力が疲弊し、国内では流民・反乱が頻発していた。また、武帝自身も老齢に伴い健康を害し、不老不死への執着や呪術への恐怖が強まり、猜疑心が極度に高まっていた。このような状況下で、江充のような佞臣(ねいしん)が権力を弄び、巫蠱を口実に政敵を排除する土壌が形成されていた。

『漢書・武五子伝』に曰く:
「上春秋高,意忌多所惡,群臣往往罪輕而戮重,由是人人自危。」
(訳:陛下はすでに高齢であり、猜疑深く多くのことに嫌悪の念を抱かれ、群臣はしばしば軽罪で重罰を受け、これによって誰もが自らの身の危険を感じていた。)

この記述は、武帝晩年の朝廷がいかに恐怖と不安に満ちていたかを如実に示している。

巫蠱の禍が国家体制に与えた具体的打撃

(1)皇統継承の断絶と後継者問題の深刻化

巫蠱の禍により、正統な皇太子・劉据が死亡したことは、漢王朝の皇統継承に致命的な打撃を与えた。劉据は武帝の嫡男であり、母は有力外戚・衛氏の出身である衛子夫であった。彼の死は、単なる個人の悲劇ではなく、次代の安定的な政権交代を阻害する重大な政治的空白を生じさせた。

『資治通鑑・巻二十二』(漢紀十四)に記す:
「太子亡走湖,匿泉鳩里;主人家貧,常賣屨以給之。……吏圍捕太子,太子入室,閉戶自經。」
(訳:太子は湖県へ逃げ、泉鳩里に隠れた。その家の主人は貧しく、常に草鞋を売って太子を養った。……後に役人が包囲して捕えようとしたため、太子は室内に入り、戸を閉ざして自殺した。)

この悲劇的結末は、正統な後継者が非業の死を遂げたことを象徴しており、その後の昭帝・宣帝期における外戚・宦官の台頭、さらには王莽による簒奪へとつながる伏線となった。

(2)外戚勢力の崩壊と政治的均衡の喪失

衛太子の母方の一族である衛氏・霍氏(霍去病・霍光一族)は、武帝期の軍事・政治を支える中核勢力であった。巫蠱の禍により衛子夫が自殺し、衛青の一族も没落したことで、長らく安定していた外戚政治のバランスが崩れ、新たな権力闘争が勃発した。特に、後に輔政大臣となる霍光は、この混乱を収拾しつつも、自身の一族を優遇する傾向を強め、外戚専横の先例を開くことになった。

『漢書・外戚伝上』に曰く:
「后卫太子败,皇后坐焉,遂自杀。卫氏悉灭。」
(訳:その後、衛太子が敗れたため、皇后はその連座により、ついに自殺した。衛氏一族はことごとく滅ぼされた。)

この一文は、衛氏の政治的消滅がいかに急激かつ徹底的であったかを示しており、これにより武帝政権の柱石の一つが失われたことを意味する。

(3)官僚機構の機能不全と民心の離反

巫蠱の禍は、単に宮廷内の事件に留まらず、地方官僚や一般民衆にも広範な恐怖をもたらした。江充らが「巫蠱調査」を名目に、無実の者を拷問・処刑する様は、法治秩序を根底から覆すものであった。結果として、官僚は保身に走り、行政機能は麻痺し、民衆は朝廷への信頼を失った。

『漢書・江充伝』に記す:
「充遂至太子宫掘蛊,得桐木人。」
(訳:江充はついに太子の宮殿を掘り返して巫蠱を捜索し、桐で作った人形を発見した。)

この記述は、明らかに捏造された証拠によって太子が陥れられたことを示唆しており、司法の公正性が完全に失われた状況を反映している。

巫蠱の禍後の政治的転換と長期的影響

(1)輪台の詔と政策転換

巫蠱の禍の直後、武帝は自らの過ちを深く悔い、紀元前89年に「輪台の詔」を発して、これまでの膨張主義・重税政策を反省し、民力回復を図ることを宣言した。これは、巫蠱の禍がもたらした政治的・社会的危機が、武帝自身に政策の大転換を迫ったことを示している。

『漢書・西域伝下』に載る輪台の詔の一節:
「朕即位以来,所為狂悖,使天下愁苦,不可追悔。」
(訳:朕が即位して以来、行ったことは狂気と愚昧に満ちており、天下を愁苦に陥れた。今さら取り返すことはできない。)

この詔勅は、武帝が自らの治世を厳しく批判したものであり、巫蠱の禍がなければこのような自己省察は生まれなかった可能性が高い。

(2)昭宣の中興とその限界

巫蠱の禍後、幼帝・昭帝のもとで霍光が摂政となり、休養生息政策を推進して「昭宣の中興」と称される一時的な安定をもたらした。しかし、この安定は外戚・霍氏の独裁に依存しており、根本的な制度的改革には至らなかった。さらに、宣帝期には再び外戚・許氏・史氏が台頭し、西漢後期の政治は外戚と宦官の抗争に明け暮れるようになる。

結論:巫蠱の禍が「由盛転衰の転換点」と評価される所以

以上のように、巫蠱の禍は以下の点において、西漢王朝の衰退を決定づける転換点となった:

  1. 正統な皇位継承者の喪失により、次代の安定的な政権運営が不可能となった。
  2. 衛氏外戚の崩壊によって、武帝政権を支えてきた政治的均衡が崩れ、新たな権力闘争の温床が形成された。
  3. 司法・行政の機能不全民心の離反が進行し、国家統治の正当性が著しく損なわれた。
  4. 武帝の政策転換(輪台の詔)は一時的な回復をもたらしたものの、制度的再建には至らず、長期的には王朝の基盤弱体化を加速した。

これらの要素は相互に作用し合い、西漢の「黄金時代」を終焉させ、徐々に衰退の道を歩む契機となった。後漢の班固が『漢書』においてこの事件を詳細に記録し、司馬光が『資治通鑑』でその教訓を強調したのは、まさに巫蠱の禍が単なる宮廷スキャンダルではなく、国家運命を左右する歴史的転換点であったことを認識していたからである。

『漢書・武五子伝』の賛に曰く:
「巫蠱之禍,豈不哀哉!父子之間,不能相保,悲夫!」
(訳:巫蠱の禍は、なんと哀れなことであろうか!父と子の間ですら、互いを守ることができなかった。悲しいことだ!)

この班固の嘆きこそ、巫蠱の禍が西漢の倫理的・政治的秩序を根底から破壊したことを最も痛切に表現していると言えよう。