巫蠱の獄(ふこくのごく)は、前漢中期における重大な政治事件であり、特に漢の武帝(在位:前141年-前87年)の晩年に発生した。この事件は、皇太子劉据(りゅうきょ)をはじめとする多くの皇族・貴族・官僚が連座し、数万人が処刑されたと伝えられる。
一、巫蠱の獄の概要
巫蠱とは、呪術によって他人を害する行為を指し、古代中国では国家の安寧を脅かす重罪と見なされていた。武帝晩年の征和年間(前92年-前89年)にかけて、この巫蠱を口実とした大規模な粛清が行われた。中心人物は江充(こうじゅう)であり、彼が主導して皇太子を含む多くの人物が「呪詛」の容疑で処罰された。
「江充は巫蠱を以て太子を誣(そし)り、太子は兵を挙げて充を斬った。」
——『漢書』巻六十三〈武五子伝〉
この事件は単なる迷信的迫害ではなく、武帝の統治理念・健康状態・後継問題・権力構造の変化など、複合的な要因が絡み合って発生したものである。
二、直接的要因:江充の陰謀と武帝の猜疑心
(1)江充の台頭と皇帝への迎合
江充は元々趙王の舎人であったが、後に中央に登用され、武帝の信任を得た。彼は法を厳格に適用することで知られ、特に豪族や皇族に対しても容赦なく取り締まった。
「充は為人剛直、刺譏面折(しかいめんせつ)、貴戚畏之(きしれいこれをおそれたり)。」
——『漢書』巻四十五〈江充伝〉
江充は、武帝の高齢と病弱さにつけ込み、「宮中に巫蠱あり」と進言した。これは、皇帝自身が呪われているという恐怖を煽るものであり、武帝の猜疑心を強く刺激した。
(2)武帝の精神的不安定
武帝は晩年、長寿を求めて神仙思想に傾倒し、同時に老衰と病苦に悩まされていた。このような状況下では、呪詛による災厄への恐れが極度に高まるのは自然の成り行きであった。
「上春秋高、意多内忌、以為左右皆為蠱道祝詛。」
——『資治通鑑』巻二十二(漢紀十四)
この記述は、武帝が高齢ゆえに猜疑心が強まり、周囲すべてが自分を呪っていると疑っていたことを示している。
三、構造的要因:後継問題と権力闘争
(1)皇太子劉据との確執
皇太子劉据は仁厚な性格で、武帝の好戦的・奢侈的な政策とは対照的であった。そのため、父子の間に徐々に溝が深まっていった。
「太子敦重好静、上嫌其材不足類己。」
——『漢書』巻六十三〈武五子伝〉
このように、武帝は太子が自分のような「英主」ではないことを内心軽蔑していた節がある。一方で、他の皇子(特に鉤弋夫人の子・弗陵)への期待が高まりつつあった。
(2)外戚勢力の台頭と旧勢力の排除
巫蠱の獄は、衛子夫(皇后)・衛青(大将軍)・霍去病(驃騎将軍)らに代表される衛氏外戚勢力に対する打撃とも解釈できる。これらの勢力はすでに衰退しつつあったが、依然として影響力を有しており、武帝はこれを完全に排除しようとした可能性がある。
「衛太子既失愛於上、江充用事、遂搆禍於東宮。」
——『資治通鑑』巻二十二
この記述は、太子がすでに皇帝の寵愛を失っており、江充がその隙を突いて東宮(皇太子の居所)に災いをもたらしたことを示している。
四、イデオロギー的背景:儒教と神秘主義の衝突
武帝は董仲舒の建議により儒教を国是としたが、一方で方士や神仙思想にも深く傾倒していた。この二重性は、統治の正当性を「天命」に求めつつ、同時に不可視の脅威(呪詛)に過敏になる矛盾を生んだ。
巫蠱の獄は、こうした思想的混乱の産物でもある。儒教的秩序の維持と、神秘的災厄への防衛が交錯し、結果として過剰な粛清へとつながった。
五、事件の終結と武帝の反省
巫蠱の獄の最中、皇太子は反乱を起こして自害し、皇后衛子夫も自殺した。しかし、後に真相が明らかになり、江充の陰謀が暴かれた。武帝は激しく後悔し、「思子之台」を築いて太子を悼んだ。
「上乃知太子惶恐無他意、乃族滅江充家。」
——『漢書』巻六十三〈武五子伝〉
また、武帝は輪台の詔(前89年)において、これまでの過ちを認め、政策転換を宣言した。これは巫蠱の獄の悲劇が、武帝の治世末期における重要な転機となったことを示している。
六、結論
巫蠱の獄は、単なる「呪術騒動」ではなく、漢武帝の晩年における政治的・心理的・イデオロギー的諸要因が複雑に絡み合った結果生じた国家的悲劇である。直接的には江充の陰謀と武帝の猜疑心が火種となったが、その背後には:
- 皇太子との理念的・感情的亀裂
- 外戚勢力の交替
- 高齢と病による精神的不安定
- 儒教と神秘主義の緊張関係
といった構造的要因が横たわっていた。この事件は、専制君主制の脆弱性と、権力の集中がもたらす悲劇を如実に示す歴史的事例として、後世に深い教訓を残している。